Cage 01
彼――久保田誠人がこの宗方家に来てから、すでに三年ほどが経過しようとしていた。理由は分からないけど、家の離れで預かることになった、年齢の近い男の子。……最初はそんなくらいの認識だった。けれども、父母をはじめとした主だった家族や使用人たちからは、徹底して『見えない存在』として扱われていたのだ。
ここに来るより以前のことは一切分からないが、彼の出自が何であれ、その扱いに対して納得がいかなかったのは言うまでもない。どうにかこうにか試行錯誤して、宗方家の少女・玲子は離れに向かう途中の誠人を捕まえることに成功した。はじめて交わした言葉は、確か。
「ね、あなたも千鶴さんから教わってるでしょ? 今度ポーカーの相手してよ。スピードでも良いから」
「本気で言ってるの……? 俺と……ねえ。うーん……勝ったらナニかくれるの」
「そうね……明日のおやつ、確認しておくわ。離れの二階にある物置きになってる部屋で、約束よ? じゃあね」
――と言った具合いにゲームの約束に落ちついたような気がする。今思い返せば、トキメキも何も無い。けれど、これくらいで丁度がいいのだろうと思うことにした。
いざ話してみれば捉えどころがなく、ふわっと掴めない言動をする彼。読めない思考ながら容赦なく核心をついてくる。落ちついてるくせに、かなり負けず嫌いなところもあるかもしれない。大人びた物言い以外は、いたって普通の少年だった。
夏の朝は空が綺麗だ。離れの建物と母屋とを繋ぐ渡り廊下を歩いてきた彼に、玲子は声をかけようとした。その気配で勘づいたのだろう、どこか虚ろだった瞳が少女の姿を捉えて――短く「おはよ」と声をかけてくれるはずであった。
しかし玲子は音もなく現れた母によって呼び止められてしまう。こうなってしまっては仕方がないと肩を竦め、これから学校へ向かうだろう誠人に小さく手を振った。娘のそんな姿に隠そうともせずに深々とため息を洩らす。
「玲子さん、今日は」
「茶道のお稽古でしょう? 母さま」
「ええ、そうです。くれぐれも遅刻なさらないでくださいね。ただでさえも……」
「もう……お小言なら結構よ。それじゃあ、行ってきます」
言葉を遮るよう、そそくさと赤いランドセルを背負う。玲子はスカートを揺らして家の門をくぐった。見慣れた街並みは今日もうるさい。緩く折れた坂道を小走りに行くと、ずうっと先を歩いているはずの黒いランドセルに行き当たった。
その隣りを並んで歩く。何を話すわけでもなく、道路の角を学校の方向に向かって折れる。すると車道を走り抜けるはずだった車が、キキッと音をたてて停まる。後部座席の窓が静かに開けられて「やあ、玲子。乗って行くかい」と穏やかな声がした。
「父さま……! おかえりなさい。でも、今日はお戻りにならないんじゃなかったの」
「お前の独り言が気になってね。たのしいかい?」
「ええ、とても。父さまもどう?」
「はは。私は遠慮しておくよ。見えないモノと話すなんて、ね」
愚かだと言いたげに細められた宵闇の瞳。じゃあ、どうして父さまはあの子をお授けになったの? 娘からの無言の問いかけさえ、見抜いているような冷えた双眸。
威圧感に呼吸が薄くなる。サッと血の気がひくどころか、身体が熱をもつのは何故? あくまで紳士的ながらも鋭い父の視線に、ふるりと少女の背筋が震えた。
たったそれだけで、身体の裏側からひっかかれたような、不思議な感覚が這いあがってく。囚われてはいけないと警鐘を鳴らすように、ざわざわと心が騒ぐ。カンカンカン。遠くで遮断機がおりる音。その音だけがやけにリアルに聴こえた。
「――玲子ちゃん」
いつ喰らいついてやろうか。常に飢えて、何かに乾ききっている誠人の、狙いを定めて窺うような視線を思い出した。なんで? どうして? 声にならない疑問が浮かんでは消える。
困惑する少女に追いうちをかけるよう、耳元に息遣いを感じた。どこか掠れた、低くなりだした声音が鼓膜を軽く揺すぶってく。我に返った玲子は緩くかぶりを振り、父に向きなおった。
「……ごめんなさい、父さま。わたし、遅刻しちゃうわ」
「ああ、引き留めて済まなかったね。いってらっしゃい、玲子」
車は屋敷に向かって緩やかに走り出した。それとは反対に歩きはじめる赤と黒のランドセル。二人で歩いていると、同じようなランドセルの群れに行きあたる。
「ねえ。玲子ちゃんはああいうのが好き、なの?」
「なに言ってるのよ、ちょっとぼんやりしただけ。……でも」
「でも? なぁに、続き言ってよ。分からないじゃない」
「わたしより弱い男の人だったらイヤかも」
「へぇ。……じゃあ五年と六年の男たちは権利ないね? 今のところ俺が一番強いから」
「誠人が強いのは分かるけど――って、どうしてそうなるの?」
「んー……ちょい悪目立ちしたのもあるけど、これを機会に少しは自覚してくれないとねぇ。俺がもたないかも」
小さく伸びをして頭の後ろで両手を組む誠人。彼いわく、高学年の男子たちの間では「カードゲームで久保田に勝利できれば宗方と付き合える」というような話が、まことしやかに囁かれているそうだ。そんなの初耳、寝耳に水すぎる。
俺はゲームができて面倒も避けられるからウィンだよ、と実にのんきに笑う。そうやってゆったりと構える様子に、余裕とも取れる言葉。いったい誰に了承を得てるんだか、と玲子は呆れ返った。
「逆に、わたしに勝ったら誠人と付き合える。――みたいな噂とか無いの? 不公平よ」
「ないない。俺より、玲子ちゃんと同じクラスの彼、えっと……城崎くん、だっけ? 彼の方が狙い目デショ。女の子なら玉の輿じゃない」
「他を当たれと勧められても、ねぇ。わたし、彼になんとなく避けられてる気もするし」
「……意外と勘ぐってるかもね、俺とのこと。男ってそのへん純情だよ? 諦めつかないなら余計に、さ」
意味深にそれらしく続けた誠人は、使い古したトランプケースに触れた。欠けた箇所を避けて、指の腹で黒いプラスチックを優しく撫でる。とても丁寧な仕草だが、どことなくアンニュイとも取れる雰囲気だ。
学校につくなり、トランプを触りたがるとは。裏で相当、男子たちをさばいてきたのだろう。元々、勝負事に執心しているだけあり、なまじ中毒みたいになっているのかもしれない。
「じゃあ、玲子ちゃん。放課後、ね」
「ええ。あとでね、誠人」
ふたりが言うところの『放課後』とは『離れの二階』と訳すのが正解だ。周囲が何かを勘違いした挙句に、好き勝手に尾ひれをつけて話してくれるのであって、自分たちからあれこれと話したわけでは決して無い。
ひらひらと手を振って別れを告げ、玲子は自分のクラスに入ってく。すると、見計らったよう席を立ったのは先ほど話題にあがった城崎だった。ホームルームの前だと言うのに、どういう理由か隣りのクラス――誠人が居る教室へと入っていったのだ。
「久保田くん」
「あー……城崎、くん。どうしたの? 改まっちゃって」
「今日の放課後って空いてる……かな」
「いちお、空いてるよ。もしかして、挑戦するの?」
問いかけると、緊張から生唾を飲んだ城崎。くしゃくしゃと髪を掻いた誠人は「オススメしないけどね。――ま、俺にはカンケイないけど」と矛盾した言葉を口にしていたのだった。
自分のなかでの彼女の価値。喪ってしまえばそれまでだが、自分から手放そうとは不思議と思えなかった。誰にでも平等に感情を向けるくせに、自分のことは無頓着。負けず嫌いなお嬢さま。腹の違う、でも年齢の近い姉。唯一フツウに接してくれる――あの家のなかで、純粋な感情をもって久保田誠人という存在を繋ぎ留めてくれる。
学校のみなには伏せてあるが彼女との、玲子との関係は、腹の違う姉弟だ。でも、他人であった時間が長かったから、きょうだいだのと言われてもイマイチしっくりこない。三年経っても、よく、分からない。むしろ、女としての価値は高いかもしれない。もっとも勝ち気なところに目を瞑れればであるが、彼女の勝負強さや天性のセンスにはそれだけの価値があると思う。
「久保田、授業はじまってすぐに寝ようとするんじゃあない」
「いたっ! だからってチョークを投げるのはズルいってば、先生」
軽く頭部に当たったチョークは、そのまま床に落ちて割れてしまう。いつもの光景だと言いたげに、どっと周囲がわく。真面目にノートを取るわけでもなく、誠人は席につくと机に突っ伏していたのだった。