cage 06




 誠人を見送ったあと、玲子は雨にまぎれて泣いていた。
 声をあげることなく、ただ、ただ静かに涙を流していた。春先の雨が身体を打つ。伸ばした髪が水気を吸って肌にまとわりつく。それを払う気にもなれず、どうにか玄関先に戻るとそこにはタオルを渡してくる千鶴がいた。
 彼女は何も言わなかった。泣いてる玲子の雨に濡れた肩を抱いて、何度も「うんうん」とあやしてくれる。優しさに寄りかかるよう、子供みたいに泣いた。明日には元通りにならないと。周囲に、クラスメイトにも心配をかけてしまう。

「行っちゃったね、久保田くん」
「不思議くんだったよねー」
「宗方さんとニコイチだった印象あるかも」
「確かに!」

 ざわざわと騒ぐクラスで、玲子はぽつんと教科書に視線を落としていた。さっきの授業の内容、まったくと言っていいほど入ってこなかった。そんな調子では先が思いやられる。そう言い聞かせて、ゆっくりと席を立つ。
 廊下を歩いて、非常階段に出る。誠人が隠れてタバコを吸ってた場所だが、そこには誰も居なかった。手すりに背中を預けて、校舎から向かってくる人影を観察するには丁度いい位置どりだ。ひょっとしたら、此処でタバコを吸いながら、誠人は誰かが訪ねてくるのを待ち伏せていたのだろうか? 今となっては、もう、分からない。

「ここに居たんだ、宗方さん」
「あ……城崎、くん」
「その、こんな時に伝えることになるなんて考えても無かったんだけど」
「うん」
「僕と、付き合ってくれませんか」
「…………! え……」
「ずっと、頑張ってる宗方さんのこと好きで……見てました。僕じゃダメなのは分かってる、でも――伝えないで諦めるのは、違うかなって思って」

 城崎の真摯な瞳が、戸惑いの色を隠さない少女を見据える。彼が自身を誰と比較して言っているのかは、すぐに思い当たった。

『他の男が当然のように入ってくるのは、さ』
『許せそうに――ない』

 あの夏の日の言葉を、まるでフラッシュバックのように思い出した。情景も鮮明で、あの時に感じた以上に嬉しくて、同時に胸の奥からあふれた寂寥が、涙となって伝い落ちる。

「ごめ……なさい……ごめん、なさ……」
「うん。宗方さん、久保田くんと親しかったもんね。やっぱり、寂しいよね」

 見透かした言葉であっても、彼の人となりが滲んであたたかい。ぽろぽろと涙をこぼす玲子は、ふるふると弱々しく首を振った。未練が無いと言ったら大嘘だ。本当は伝えたかった。行かないで。その一言を。
 でも、葛西と一緒に行くことは彼が自由を得られる好機なのは分かっていた。未成年がそれを手にすることは不可能に近いからで、またと無いものだと。理解していても、心が追いつかない。
 誠人に初めて声をかけた時――見咎めた母の手が玲子にあがりそうになったとき。ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐えようとしたが、一向にそれがくる気配がなくて。ゆっくり目を開けたら、そこには玲子を庇ってぶたれた彼の姿があったのだ。

「あの……城崎くん」
「なに、宗方さん。もう、大丈夫?」
「うん……あの、ね。友達からのお付き合いでも、いいかな」
「えっ」
「わたしと、友達からはじめて欲しいです。城崎くん」

 そう伝えるだけで精一杯だった。縋るような思いで、必死に言葉を紡いだ。今は、今だけは逃げても許されるだろうか? そんな疑問をかかえながら、玲子は城崎と友人から付き合うことをスタートさせたのであった。
 それから城崎と順調に関係を進めていた。互いに志望していた高校への進学を控えて、残り少ない時間を謳歌しようとしていた矢先のこと。父である宗方誠司は娘の玲子を有用と判断し、水面下で見合いの席を設けようと画策していたのだ。
 断わる権利は最初から無かった。分かりきっていたけれど、父の思い描くとおりに動くしかない現状が、堪らなく我慢ならない。そのことで城崎との関係がぎこちなくなり、高校に進学する頃には疎遠になってしまっていた。

「ね、千鶴さん。初体験って、やっぱり覚えてる?」
「うーん、いきなりだね? そうだなあ……感覚的に覚えてるかもしれない。香水とかタバコの匂いとか、触れあった質感とか、五感的なやつ」
「ふぅん……そういうもの、なんだ」

 焼きあがったクッキーの粗熱を冷ましながら、玲子は千鶴に問いかけた。個人差はあるだろうと思うが、やっぱり覚えてるものなのか。彼女が言葉を選びながら答えてくれたあたり、ほんの少しくらいは実体験も入ってそうだ。
 匂いで覚えてるとしたら、やっぱり部屋に漂うタバコとかだろうか。
 感覚的に覚えてるとしたら、貫かれる瞬間……とか? 分からない。誰かと身体を重ねるなんて想像の域を出ない情景に、玲子は小さく唸った。生娘であることを焦ってるわけでは無い。ただ、本当に結ばれたい相手とは上手くいかないものだと体感したと言うか……初恋がいい例だと思うのだ。

「でもお嬢さんにしちゃ、ずいぶんと分の悪い賭けに出たもんだね? 私のほうで当たってみるけどさ」
「ありがとう、千鶴さん。分かったら教えて、約束よ」

 見合い相手は、悪いひとでは無かった。穏やかでスマートで、優しいひと。でも、どうしても婚約が嫌だった玲子は父に対してひとつの条件を提示したのだった。
 それは条件と言うよりも、ゲームに近い。高校在学中に誠人の行方を捜せたら、婚約破棄なり自立なり自由にしていい。もし三年かけても捜し出せなかった場合、婚約なり結婚なりしても構わない――と。
 高校に進学するまで、あと数ヶ月。玲子はもう一度会うことができるのだろうか? 瞼の裏に焼きついた、あの背中に。もう一度会えたら、今度は何を話そうか。望みをかけた想いに耽りながら、彼女は調理場の電気を消した。