cage 05




 ふたりの転機は、なんの前触れもなく訪れた。
 中学へ進級してそう経たない頃、あれはちょうど五月に入ったくらいで、新緑が綺麗な、でも雨の降った日だった。けたたましく鳴った電話を、たまたま近くを通りかかった千鶴が受けたのを覚えている。彼女は神妙な面持ちで用件を聞くと、少年の姿を探して離れの部屋へと向かった。

「はい、代わりました。久保田、です」
『お前さんが誠人か? 俺は葛西……まぁ、お前の叔父だな』
「……はあ。で、その葛西さんが俺にどんな用事なの?」

 電話口に出ると返ってきたのは中年男性が持つ独特の嗄れた声だった。葛西と名乗った男は母の弟――つまり誠人の叔父にあたる人物らしい。そして、長く入院生活をおくっていた母だったが、今朝方に旅立ったとのことだった。
 そして、切りだされたのは誠人の今後についてだ。誠人の物心がつくくらいから母は体調が優れなかったが、きょうだいが居るとは思ってもみなかった。今後は後見人として葛西が面倒を見てくれることになったらしい。
 数年前――誠人が出生を認知されていないにも関わらず、養子先からツテを頼って流れてきたのが宗方の本家。てっきり此処での生活も変わり映えない、無味乾燥だとばかり思っていた。あの時、玲子に声をかけられるまでは。それ以降、離れの二階にある物置部屋で人目を気にせず語らい、カードで遊んでいたのだ。

「どうしよう、かな」

 受話器を置くと、独り言を洩らす。本家の人間は、父も玲子の母も、異母きょうだい、使用人たち――誰もが『見えない存在』として扱ってくれる。この時ばかりは助けられたかもしれない。
 微かに動揺しながらも、これはまたと無いだろう好機だと感じる。自分を引き留める人間なんて、それこそ何処にも居ないのだから。そう思って、ふと脳裏に浮かんだのは玲子の表情だった。思えば彼女は怒ったり、笑ったり、泣いたり、色んな表情を見せてくれた。それがもう、見れなくなる――?
 そもそも彼女が自分に近寄ってくるのは物珍しいからだと思っていた。年の同じ異性。興味の対象。ただそれだけ。でも、と思う。もし、玲子が自分に対して何らかの――それこそ『好き』などと言った感情を抱いているとしたら。これほど難儀かつ、残酷なことがあるだろうか。

「ガッコ、行かないと」

 怠そうに通学鞄を担いだ誠人は、欠伸を噛みながら玄関先へと歩いた。そこに玲子の姿は無くて、どうやら一足先に学校へ向かったみたいだ。
 セブンスターとライターを部屋に忘れたままだと、この時の誠人は気づかなかった。帰りがけに新しくタバコを買いなおし、慣れた様子でソフトケースのフィルムを剥いた。しかし吹かしたタバコの味は分からず、ただ煙ったい空気を吸っているだけのように感じられた。



「これで全部か?」
「うん」

 ぽつり、ぽつりと降りだす雨はどことなく冷たい。
 決して多いとは言えない誠人の荷物を車のトランクに積みきった中年の男は、見送りに出てきた少女に向きなおる。あくまで強くあろうとする様子に、思わず言葉に詰まって、胸ポケットに収めたタバコをあさる。
 家人の話しでは、玲子と誠人の仲は決して悪くなかったという。それを考えたら「行かないで」の一言くらい口にして困らせるくらいしても構わない。引き留めておけないからこそ、口にしてしまうのも理解できる。だと言うのに彼女は何も言わず、なおも言葉を交わそうともしない弟に腹を立てることもなく――宗方の女としてあろうとするその姿が、かえって痛々しいくらいだった。

「葛西のおじさま、足下、お気をつけて」
「おう、嬢ちゃんも達者でな。おい誠人――最後くらい顔見せてやったらどうだ」

 元から名残惜しくないのか、それとも多少なりは名残惜しく感じているのか。まったく読めないこの甥っ子は「ああ……そうか。なんか、慣れないな」と、思い出したようにぽつりと呟いた。一体なにが慣れないと言うのか。葛西は不思議に思いながらも、運転席にまわった。
 結局、誠人は一度も振り返らなかった。そうすることで、玲子の関心を自分に向けておきたいようにも思えた。生きていれば会えるなどと、漠然とした希望を残すのは酷なことのように感じられた。玲子の――姉の『これから』を考えたら。それなら今日に縛られて泣き濡れて、恨まれてでも彼女を生かしたいのか。葛西は、この少年のことを図りかねている。

「本当に良かったのか」
「……よく、分からない……。変なの、俺のことなのにね」

 この車、禁煙じゃないよね?
 確認を取りながら助手席の窓を開けて、彼は堂々と最後のセブンスターに火を点けた。くゆる煙に眉を動かすことなく「刑事の前でイイ度胸してんな、お前さん」と笑いながら誠人の頭を軽く小突く。それから特になにを話すでもなく車を走らせた。
 道すがらコンビニに車を停めて、昼食とタバコを買っていると「あ。新商品だ」と弾んだ声。目線の先にあったのはいちごをたっぷり使ったデザートだった。ついでに買い物カゴに追加しておくと「……言ってみるもんだなあ」と感動した様子を隠さない。
 大人なんだか、子供なんだかハッキリしろ。そう思いながらも、葛西自身のあの年頃を思い返せば、彼は大人すぎるくらいだ。会計を済ませながら内心「嬢ちゃんもお前も難儀なモンだなァ」と独りごちた。
 捉えどころのない甥っ子との生活は義務教育の間だけだった。葛西が叔父として教えてやれたことは少なく、麻雀のやり方とカレーの作り方と――血痕の落とし方の知恵くらい。けれども、彼にとっては大なり小なり財産になっただろうと思う。そうであって欲しいなどと、少しばかり高慢が過ぎるだろうか。