cage 03




 キィ……キィ……。
 公園のブランコを揺らす。桔梗色の稽古着で少女は独り、周囲から浮いていた。だんだんと陽が落ちはじめ、子供たちの波が去っていく。十七時近くまで、あとどれくらいだろう。
 母と出くわした今日に限って、稽古に身が入っていないと叱られてしまった。気分を入れ替えることを勧められ、席を外したまでは良かったものの。

「……困った、なぁ」

 依然として問題点はそこではなく、自身にまつわる物事になる。波風を立てないよう、誰に、どこに肩入れすることなく、適度に振舞っているつもりだ。それが誰かに――意図しない不特定多数から好意や、何かしらの感情を寄せられる結果になろうとは。考えたことも無かった、一度だって。考える必要が無かった、一度だって。
 宗方の女として正しく在りなさい。母は常々そう言ってきた。玲子に、正確には母自身にかもしれないが、まるで言い聞かせるように。繰り返し、繰り返し。その瞳は娘を捉えているようで、どこか彼方を見ているようだった。
 出来のいい姉が居るのだから、宗方の血は絶えない。ならば少しくらいは自由に生きてもいいはずだ。それなのに、心は動かなかった。まるで、動くことを忘れてしまったかのように微動だにしなかったのだ。
 あの日――屋敷で初めて誠人を見つけて声をかけた時のように、ぱあっと明るく、弾んだ気持ちにはなれなかった。いずれはどこぞへ嫁ぐ身だ。考えが古かろうと、宗方の家はそうやってまわってきた。その思考が足を捕らえて、絡めて、深く、無意識の底に沈んでいくような気がして。

「はぁ………………帰りたくない、かも」
玲子お嬢さんでもそういう時ってあるんだねえ? ちょっとだけ安心したよ」
「ち――千鶴さん! い、いつから隣りに……?」
「茶道の先生からお電話をいただいてね、ひと雨くる前に迎えに来たわけ」

 普段は宗方の調理場に居る千鶴だが、玲子が必要とすれば車を出してくれる。たったの電話一本で何かを察知したあたり、さすがと言うべきか。彼女は下にきょうだいが居ることもあり、なにかと世話を焼いてくれる。それだけでなく、必要なら子供扱いだってしてくれる。
 玲子と誠人を子供扱いついでに、自身も遊ぶ相手が欲しかったのだろう。ふたりにポーカーやブラックジャックといった遊びを教えてくれたのはこの人だ。物珍しそうな表情で玲子の顔を覗きこみ、どこか安心したような色を滲ませながら笑った。大人には小さすぎるだろうブランコに腰かけ、彼女は少女が自身に気づくまでずうっと待っていてくれたらしい。

「続きは車に乗ってから。オッケー? お嬢さん」
「うん……ありがと、千鶴さん」

 促されて、車の後部座席に座る。シートベルトを締めると、帯の結び目が潰れないように背筋を伸ばす。頃合いを見たかのように道なりに左へカーブしてく。
 ミラー越しに、目線が合う。何だか申し訳なくて視線をそらすと、彼女は「どうしたもんかねぇ」と呟いては大雑把に前髪を掻きあげた。どうにも会話の切り口に困っているみたいだった。
 大人でもそういう時があるんだ、と思った。どこから話せばいいかと、思案して玲子は今日あった出来事をゆっくりと言葉にしていく。誠人と付き合ってるんじゃないかとか、誠人に勝てば自分と付き合えるとか、普段なら使わないトランプを使っていることを掻い摘んで話した。

「なるほどねぇ、誠人のヤツも手段を選んでないワケだ」
「……うん。それもだけど、なんて言うか……モヤモヤする」
「そりゃそうだろうさ。キミの気持ちを蔑ろにしてることだからね」
「それも、だけど。誠人にとって、わたしってそこまでする価値があるのかなぁ……って」

 だんだんと言葉は尻すぼみになってく。自分にとっての彼と、彼にとっての自分。心の中で占めるウェイトは違えど、根本が乖離しているのでは無いか? ――と言う漠然とした不安。この気持ちが間違い、気の迷いとかで片づけられたらいいのに。

「守りたいっていう感情は、男の子にとっては大きいもんさ。案外、気づいてないだけで好きなのかもしれないよ? お嬢さんのこと」
「す、好き……って! わたしたち、きょうだいだよ……? そんなの」

 そんなの――。否定してしまっていいのだろうか。他ならない玲子自身が、今感じている感情を否定していいのだろうか。そんな疑問が浮かんでは消える。
 見かねた千鶴は宗方の敷地に入ると、いつもの場所に車を停めた。エンジンを切り、後部座席にまわってドアを開けてくれる。何をやってもスマートと言うか、たとえ大雑把であったとしても綺麗な所作に感じた。

「そこに在るのがどんな感情であれ……ね。ふたりが仲良くしてれば私は願ったりだよ、あれこれと教えたかいがあるってもんなの。どんな風に好きとか嫌いとかさ、そんなの当人同士が理解してりゃイイと思うけどねぇ」

 そんで、他人がとやかく言うことでも無い。
 はっきりと、彼女はそう言いきった。その瞬間、本当に困ったことがあったらこの人を頼ろうと直感した。肯定的に捉えてくれたのが嬉しいのもある。けれどもそれ以上に、自分の意見を述べてくれたのが純粋に嬉しかった。
 物心ついた頃から周囲の大人が気を使ってくれる環境だった。そんな中での千鶴の気遣いは実に最低限で簡素で、本当にありがたいことだ。玲子お嬢さんと呼ぶ時だって、本当はもっと砕けて呼びたいのを知っている。誠人のことは立場上、誠人坊と呼んでいるけれども彼女にかかればただの負けず嫌いな少年なのを知っている。

「……さ、手を洗ったら調理場においで。今日は舟和の芋ようかんだよ」
「ほんとう……? ありがとう、千鶴さん」
「ちょっとは明るい顔してくれたね。奥様には上手く言っておくからさ、待たせてるなら行っておいで」

 てきぱきと手ぎわよくお盆に乗せられたのは二人分の芋ようかんと、冷たい緑茶を注いだ涼しげなグラス。ついでと言いたげに乗せられたのは、新品のトランプケースだった。プラスチック製のトランプはつるりと滑るから紙製のトランプを好んで使っているのだが、どうにも長持ちしてくれない。
 玲子はお盆をかかえると、通い慣れた離れの建物へと渡ってく。誠人の部屋を過ぎて、ゆるく折れた階段をのぼり、薄暗い廊下を気配を殺して歩く。部屋の前につくと、たおやかな仕草で引き戸に手をかけた。

「入るわよ」
「……どーぞ」

 室内から返ってきた声に平静を装う。すっと引き戸を開けると、部屋の窓枠に腰かけて退屈を隠さずに外を眺めている誠人と目線が合う。鋭い瞳がまっすぐ覗いてくる。その目線の移ろい方は、どことなく父を思い起こさせた。
 最初でこそ行儀が悪いと窘めていた玲子だったが、それをしなくなったのは何故だっけ。ああ、確か。彼だけは自由であって欲しいと願っていることに気づいたからだ。やがて親鳥の元を巣立つ雛鳥みたいに、宗方の家に囚われることなく羽ばたいて欲しいからで。

玲子ちゃん? どうしたの、ぼーっとして」
「あ……ごめんなさい」
「珍しく今日は稽古着のままじゃない。なに、急いできてくれたの?」
「今日は稽古にならないって言われて……その」

 言い淀んでいると、誠人はますます珍しいと言いたげだった。玲子は引き戸を閉めて、かかえているお盆をいつものテーブルのうえに置いた。お茶の注がれたグラスを差し出し、ふたりで小さく乾杯をする。
 開いていた障子の隙間からは、鈍色の雲が流れてきた空模様が見えた。程なくして暗ったくなり、ざあぁああと雨粒が屋根を叩く音が聴こえはじめた。接触の悪い照明をつけて、室内を明るくする。トランプを混ぜて遊んでいれば、夕立ちは過ぎ去っていた。芋ようかんを食べ終えると、部屋の隅に置かれた布団を広げた。しばらくふたりして身体を沈めていたが、誠人のいる方で身じろぎする気配がある。

「俺ね……玲子ちゃんとこうやって過ごす時間、すきだよ」
「うん」
「他の男が当然のように入ってくるのは、さ」
「うん」
「許せそうに――ない」

 誠人が真剣な面持ちで見つめてくる。ひとつひとつ、確かめるように言葉にして、そのつど玲子の様子や返答を観察しているように感じられた。邪魔くさそうにメガネを外して、彼は寝転がったまま抱き締めてくれる。まるで何かを伝えようとするかのような行為に、玲子の胸はきゅうっと締まった。
 言いたいところは分かった気がする。たぶん、きっと同じ『好き』だ。もし微妙に何処かが違っていても、プラスの感情であることは感じとることができた。腕を伸ばして軽く抱きつくと、骨張りだした手が優しく髪を梳いてくれる。心地よい。目を細めていると、静かに船をこぎはじめるのであった。