cage 04
彼女と一緒にいる安堵感からだろうか。あれから誠人も寝入っていたようで、気づけば夜が訪れていた。再び窓枠に腰かけて外を眺めていると、見えたのは屋敷を出ようとしていた千鶴。彼女は何かに気づいたように離れを――こちらを見やった。視線が合うと、おいでと言いたげに手招き。
陽が落ちきった外からは賑やかなお囃子や子供たちの声がする。もうそんな時期か、と誠人は慌てて部屋を出た。祭りの夜は千鶴に連れ出してもらうのが常だった。自身が羽を伸ばしたいのもあるが、何かと自由が利かない玲子の代わりと言っても過言では無い。
「お嬢さんは、母屋かい」
「いや、離れの二階。よく眠ってるよ」
「そっか。……じゃ、今年もはりきって行こうかねぇ」
宗方の門をくぐる。そこから昔ながらの大きな通りに出れば屋台が並んでおり、提灯や電飾などが飾りつけられている。神輿はこのあたりを離れたあとのようで、人がごみごみとしているだけだった。
綿あめを頬ばりながら、誠人は千鶴に連れられて歩く。屋敷での生活は慣れたとか、新しいクラスには慣れたとか。ああでもないこうでもないと、取り留めないことを話した。でも、玲子にまつわる噂については隠しておいた。現状、被害が出ているわけでは無いから構わないと踏んでのことだ。
「よし、ちょっと遊んで帰ろっか」
「ゲーム? なにするの?」
途中で見かけた射的屋に寄りこむと、ちょっとしたゲームをする。何でも良いから落としたら勝ち。言い出した千鶴は箱物のお菓子を狙って落としてく。誠人が狙えそうな的と言うと、だいたい高めの品物で。ものは試しとゲーム機を狙ってみたが、落とせるはずも無く――箱が少しだけ奥に押しこまれただけだった。
「ほい、坊主には参加賞な」
「……どうも」
「ちょっと聞きたいことあるんだけど、このあたりにもうひとつ屋台って出てなかった? 和菓子屋さんみたいな雰囲気の」
「いつもは出てるんだが……今年は出てねぇなあ」
「ありがと、おじさん。助かったよ」
小銭のやり取りを終えると、待たせていた誠人の元へ戻ってくる。先ほど参加賞として貰ったのは、和紙に包まれたいちご飴だった。千鶴が探している屋台のもので、今年は店を出していないのだったか。
何気なく口に入れようとしたいちご飴だったが、玲子が好きそうだと考えると躊躇われた。寄り道をせずにまっすぐ帰る。残念だったねえ、誠人。と意地悪く笑う千鶴はとても満足そうであった。
「じゃ、今夜はゆっくりね。また明日、誠人坊」
「俺も楽しかったよ。おやすみ」
離れまで見送られると、誠人は軽く手をあげて応えた。部屋に明かりを点ける前に、二階の様子を見ておかないと。物置きのように使われている部屋だけあり、夏は暑くて冬は寒い。冷房が無いことを考えれば、余計だろう。
たんたんっと駆け足で階段をのぼりきる。小走りに廊下を進んで、部屋のなかから光が漏れていることに誠人は胸を撫で下ろした。そっと指先を引っかけながら少し開け、指の腹を使って静かに戸を引く。
「玲子ちゃ――」
室内を覗きながら呼びかけた名前を飲みこむハメになった。チラチラと消えたり点いたりを繰り返す電灯。不安定な光源でも、夜闇に浮かぶ少女の儚さは隠しきれなかったようだ。彼女は誠人がしてるみたいに、窓枠に腰をかけて外を眺めていた。物悲しげに瞼を閉じて俯き、スゥッと温度をなくしたかと思うと、こちらに気づいたのか無音のまま視線だけを流す。その仕草が年齢に似合わない空気を含んでいて、何とも言葉にしがたい感情がわいた。
なにがきみにそんな表情をさせているの――?
問いかけるより先に身体が動いて、気づいたときには止められなかった。玲子の腕を引いて、勢い任せに唇を重ねる。触れ合わせるだけの幼いそれに、見開かれる宵闇の双眸。そのまま抱き留めずに、押し崩させてしまう。あの時、彼女が小さな重みでそうしたように。
「ごめ、ん……誠人……」
「だいじょうぶ、だよ。玲子ちゃんの身体、どこも気持ちいね」
「誠人、あの」
「いいよ。玲子ちゃんの、好きにして」
まっすぐ見下ろす冷めた瞳が、誠人を捕らえる。クラスの誰も見たことがない、無機質で冷淡――時には非情とも取れる彼女の表情。彼女が、真剣な時に見せる瞳は熱がひいて、凍えたよう。しなやかな獣が獲物に狙いを定めた様子に、ぞくぞくと背筋が震えた。
「わたし、誠人と同じ男の子がよかった。そしたら、もっと一緒に居られるのに」
「うん」
「好きなひとと居られるだけが幸せとは限らない。でも、あなたには自由で居て欲しいと思ってるの」
「玲子ちゃん……ありがと。でもね」
「うん。なぁに、誠人」
「誰かを好きになるとかさ、そーゆー感情さえ知らないヤツもいるよ。たとえば――」
耳元に唇を寄せてぼそりと声をひそめて耳打ち。すると、びくりと小さな身体が震えた。長い睫毛が揺れて、涙がこぼれ落ちる。誠人の言葉に、何かを予感していたのだろうが、玲子の心は耐えられなかったようだ。
優しいね。言いながらゆっくり半身を起こす。どう彼女を籠絡するのが正解か。流された涙に心が痛むどころか、ドキドキと鼓動が早くなるのを感じる。理解してる。この感情は、綺麗なものでは無い。だって、久保田誠人という存在で傷ついた宗方玲子という存在が、堪らなくいじらしくて、手放したくなくて。もっと心の深いところまで根ざして、彼女をダメにしてしまいたい。それと同じくらい、彼女と言う存在でダメになりたいと願ってしまうのだから。
どうにか慰めようとして、誠人はいちご飴の存在を思い出す。和紙に包まれたそれを彼女に渡すと、最初はきょとんとしていたが、次第に嬉しそうに表情を破顔させたのだった。細い指先がいちご飴をつまみあげて、柔らかい唇が触れ、やがてじゃりと食まれる。そのいちごがなんだか心憎い。黙りこくった誠人の様子に甘いものを欲していると思ったのか、玲子が新しい飴に手を伸ばそうとするのを言葉と行動とで制した。
「玲子ちゃんの、ちょうだい」
「えっ、ちょっと……」
ちょっとワガママが過ぎただろうか。困惑した声音を右から左に聴き流すと、誠人は食べかけのいちご飴を指先ごと口に含んだ。べっこう飴の優しい甘さといちごの甘酸っぱい味が広がって、ぴちゃぴちゃと音をたてて舐める。
くすぐったいわ。生暖かい舌先が触れるたび、小さく洩れた息遣いは少しだけ乱れてく。ちゅっと音をたてて唇を離すと、玲子は真っ赤になって顔をそむけた。そんな様子が可愛くて、追い討ちをかけようとした誠人であったが、踏みこみすぎて返り討ちにあったのは言うまでもない。
遠くで聴こえていたお囃子や人々の活気は、部屋の照明とともに落ちついた。何気なく過ぎていくはずだった夏の、夜も遅くなりだす前の出来事だった。あの時に見た彼女の涙と、初めて知った唇の柔らかな感触。それらは、いったい何時まで自分の中に残るだろう? 誠人は漠然と頭の片隅で考えていた。