cage 07




 一九九五年――七月。
 久保田誠人が出雲会の年少組を率いるようになって、二ヶ月が経った頃だった。いつものように馴染みの雀荘に足を運んで、代打ちのアルバイトをしていた。半荘を長引かせることなく済ませ、全員から点棒を吸いきって上機嫌。あとは近くのコンビニに寄って、夏の新商品と吸い慣れたタバコを買うだけである。
 そう思って、店を出た矢先。空の色からしてひと雨きそうだと思っていたが、まさか本当に降りだすとは。ぽつぽつと弱く、次第にそれは強くなっていく。傘を持たずに出てきた誠人はコンビニに寄る予定を切りあげて、早々とマンションを目指した。
 エレベーターに乗り、目的のボタンを押す。ベビーカーを押した主婦と出くわし、閉まるドアに足先を挟んで迎え入れた。ありがとうございます。いーえー。当たり障りのない、無難なやり取りも慣れてきたと思うのだ。

「……?」

 久保田の表札がかかってる部屋の前。そこにぽつんと立つひとつの影があった。ほっそりとした体躯だが、胸元は形良く豊かで、肩甲骨くらいまで伸びた黒い髪を緩く結んでいる。此処に来るまでに他所で激しく降られたのだろうか、ずぶ濡れと言っても過言では無い。
 濡れながら立ち尽くす姿を見た瞬間、誠人の心に戸惑いが溢れた。彼女――宗方玲子がなぜ此処にいるのか、一瞬には理解できなかったほどだ。これまでの生活で完全に過去のものとなっていたのに、突然目の前に現れた少女の姿が、記憶の奥底に封じ込めていた感情を引き寄せるようだった。

「……久しぶり、ね。誠人」
玲子ちゃん? ……どうして、此処に」

 自分の声が上擦っているように聴こえるほど、かすかに震えているのを感じた。追い払うべきか迎え入れるべきかの判断がつかないまま、誠人はただその場に立ち尽くす。彼女の目は涙で潤んでおり、その一滴が彼の心に重たく響く。声はかすれ、今にも消え入りそう。
 あの頃と同じように名前を呼ぶ。変わらない仕草がかつての記憶を呼び覚まし、心臓はドキドキと早鐘を打ちはじめていた。まさか、こんな形で再会するとは思ってもみなかった。彼は自分の練習してきた冷静さが、この場では無力であることを悟る。

「入ってよ。そのままだと風邪ひくデショ」
「…………うん」

 できるだけ平静な声を保ちつつ、部屋に入るよう促した。 玲子は小さく頷くと、誠人につづいて部屋の中に入る。その瞬間、別れぎわの彼女を思い出した。深く呼吸。そして、雨の匂いと共に過去の記憶が現実に迫りくるのを感じながら、震える細い肩を見つめた。
 水気を吸わせようとバスタオルを手渡し、そのまま手早く風呂の支度。リビングでソファーに座り、二人はしばし黙っていた。雨音が外の世界で支配的な音をたてはじめると、緊張感がより一層強くなった。数日前に葛西から受けた電話の内容が、いまさらになって誠人の中で思い起こされる。何か大きな問題が待ち構えているのかもしれないという予感が、心にのしかかってきた。

「お湯、沸いたから使って」
「え……でも」
「いーから。ほら、暖まっておいで」

 ソファーから腰をあげた玲子に指先で道を示す。彼女が脱衣所に向かったのを確認すると、クロゼットを開けに寝室へ向かう誠人。夏物に入れ替えて少し経つが、どれが適当だろう? 彼女の小柄な身体つきから考えれば、どれも着丈は間に合いそうであるが。薄手のシャツとを引っぱり出して、洗濯機をまわしに脱衣所へ足を向ける。

玲子ちゃん。服、置いてあるから」
「ん、ありがと。誠人」

 ガコン、と音をたててまわりだす洗濯機。風呂場のガラス越しに、薄らと彼女のシルエットが見える。ガサ、とポケットをあさり無意識にタバコを探す。帰りがけに買うのを諦めたんだったか、と思い出してコーヒーを淹れにキッチンへ。
 冷蔵庫を開けて食材の確認をしながら、ケトルでお湯をわかす。二人ぶんのインスタントコーヒーを用意すると、どちらのカップにも少しだけ砂糖を入れた。廊下からカタッと小さな物音が。そちらへ視線を流すと風呂から上がった玲子が、そこに居て。

「仕方がないとはいえ、さ。なかなか目のやり場に困るモンだぁね」
「……う。やっぱり見苦しい?」
「そっちの意味じゃなくて、逆だよ。逆」

 髪を拭いてやりながら、ほどよく茶化しておく。上ばかりに気を取られて、下に履くものを用意するのを忘れていた。薄手のロングTシャツに白いシャツを重ねただけだから、玲子のすらりとした綺麗な脚線や、上体の発育の具合いと言うのは窺えてしまうわけで――いくら自分で招いたとはいえ、これは新手の責めかと考える。
 あまりに無防備な彼女の姿に、誠人はなんとか言葉を返すと、黙って髪を拭きつづけた。あれからずっと伸ばしていたのだろうか。質のいい髪だが濡れてしまうと量が減ったように感じられる。纏まりがいいと言えば良いのだろうか、よく分からないが。

「あの頃から変わらないね。玲子ちゃん」
「そう? 少しは……変わったと思う、けど」
「まあ、確かに。出るところは出たなぁって思うケド」
「それを言ったら……ねぇ? 誠人だって……ふふ」
「どしたの、急に。はい、ヤケドしないでね」
「久しぶりに会って、やっと話せたなぁって。なんだか、可笑しくて」

 カップを渡しながら、誠人は無難と思える話題を切りだした。互いに二次性徴が終わって、男と女のそれらしくなったと思う。でもふとした瞬間に見せる仕草や、表情や声のトーンは変わらないと判断できる。

「どうして此処が分かったの?」
「それについては葛西のおじさまを頼るのも虫がよすぎると思って、その」
「なるほど、ね。本家でなにかあった?」

 葛西から連絡を受ける前、だいたい体感で三日くらいの短い期間だっただろうか。なにやら尾行されてる気配を感じていた。東條組の人間と言うわけでもなく、かと言って身辺を嗅ぎまわられる覚えもなく――判断に困ったのを覚えている。
 そのあと玲子が此処に現れたことを考えれば、彼女が探偵を使って調べていただろうことは想像に容易い。どうして今になって。考えつく要因として宗方本家でなにか、と言うのが真っ先にきてしまう。

「そんな、褒められたものじゃない……から」
「いいよ。ひとまず今日はゆっくり休んで、ね? 玲子ちゃん」

 ……うん。
 玲子は安堵の表情で微笑み、小さく頷いた。それからふたりは静かにコーヒーを飲み、お互いの存在を確かめあうように過ごした。
 何気なく言葉を交わしたり、指先で触れたり、どちらからともなく笑いながらじゃれあう。都市部特有の喧騒まじりの雨音が降る夜、ふたりの心は自然と寄り添っていった。