Accept 02




 目が覚めた時、そこに彼は居なかった。温もりは欠片も残っておらず、あれからすぐに出て行ってしまったのだろうと窺がえた。別に恋人同士のような甘い睦言を期待したわけでもない。けれど、この胸の奥で得体の知れない感情がつついてくるのも事実だ。自分の言い分を通しきる自信が無かった。だから、理由になれば何でも良かった。
 金を払った見返りに、虚言を吐かせることだってできたはず。でも、どうしてそんな真似をしたのだろう。昨日の自分は。
 自発的に来たというより、正確に言えば強引に連れて来たのだけれど。元より彼とは公私の線引きはしっかりしていたと言うか、面白いくらいに不干渉だった。そんなことを考え耽っているうちに起床時間らしく、水を打ったように静かな部屋に時計のアラームだけが鳴った。それを止めるのと同時に考えるのもやめ、まだ熱の引かない身体をゆっくりと起こす。下肢に力を込めた途端、とろっと身体の奥から何かが溢れてきた。それは彼が残した体液だと理解した瞬間に、まざまざと昨晩の情事を思い出してきた。
 あの唇が触れることは無かったし、自分から触れようともしなかった。彼がどんな風に女と床を共にするかなんて知らない。だが、普段の周囲への態度とノエル=ヴァーミリオンへの接し方から察するに、昨日の彼は破格なまでに優しかったと思うのだ。
 そのことが形容できないくらいに嬉しくて、慣れてしまったはずの孤独な朝が無性に哀しかった。まるで、肌を重ねる心地よさを知った代償みたいじゃないか。

『これ以上は僕に構うな。――命令だ』

 そう書き置きを残した彼、ジン=キサラギ少佐が第四師団から除隊されて、じきに一ヶ月ほどが経つ。最初はそれこそ冗談だろうと思っていた。命令違反に単独行動、他にも自分には知らされないだけで色々と無茶をしていたみたいだった。
 それから一切の行方が分からなくなって、偶然に見つけたのが昨日の夜だった。彼の荒んだ空気に触れてしまったら、今の生活を訊ねるなんて出来なかった。特権階級を追われた人間の行く末なんて、そんなの……。
 ふたたび考えていることに気づき、ノエルはそれを掻き消すように頭を緩く振る。最有力当主候補だった彼が居なくなったことでキサラギ家の勢いが削がれたとか、あのヤヨイ家が盛り返しているだとか。最近はそんな話しばかりなのだから、と思いなおした。
 もう一度会える約束なんてしていない。だから、保障なんてどこにも無い。でも、何もせずにはいられないのも事実である。連絡用の端末に手を伸ばすと、諜報部のタブを開いた。以前、任務の時にもらった連絡先があったはずだからだ。

「あ、あの……! ハザマ大尉の連絡先で間違いないでしょうか」
『確かに間違いありませんが、どうされました? ヴァーミリオン少尉』

 呼び出し音が数回続いて、聞こえてきたのは目当ての男の声だった。
 キサラギ元少佐に関する情報を流してなどと頼むつもりは無いが、頼みごとがあるには違いなかった。延々と続きそうな他愛無い世間話をなんとか切り上げると、やっと本題を切り出すことができたのだ。

「荷物、お持ちしますよ」
「ありがとうございます。お願いしますね」

 待ち合わせ時間よりも少し遅れてハザマは来てくれた。少しばかり男物の衣服を買っておきたい。背丈とを総合的に見て近いのが彼だと思ったからだ。
 それにしても、いわゆるデートをすると言うのは、こんな雰囲気なのだろうか。無論、ハザマとはそんな間柄ではないし……何だかそれはうすら寒い気がした。こんな風に、気遣いが行き届きすぎているというか、上手い言葉が見当たらない。

「アナタ、失礼なコトを考えませんでした?」
「えっ、何がですか?」
「そうですねえ、例えば……私と貴方が恋人同士、ですとか!」

 前言撤回したい。うすら寒いなどと言うものではなかった。
 面白さは半減だろうし、何より彼の言動に付き合いきれず精神がもちそうにない。

「今だって思いませんでした? 大尉ではなくて、キサラギ少佐だったら~なんて」

 何だろうこの土足で踏み入られてる感覚は。
 しかも踏み入った挙句に踏んで荒らすタイプだ。それでもノエルが笑顔で応対していると、男はいかにもつまらなさそうに溜め息を洩らした。

「おや……? 噂をすれば元少佐じゃありませんか。アレ」
「……ッ!」

 それでいて目当てのシルバーアクセサリでも見つけたのか、それは見せかけで元より上機嫌だったのかは分からない。ハザマが視線を投げたのにつられて、それを追いかけるように視線を向ける。ダークトーンの落ち着いたスーツをきっちりと着こなし、ノンフレームの眼鏡をかけた美丈夫。その隣りを派手目の女が歩く。
 あれは確か――。ニタリと浮かべられた、そこに張り付けられたモノが不快だった。声を荒げそうに なるのを抑え、怒りを露わにするよう歩幅を半歩ほど早める。人によって見方が異なるのは分かる。だが、この男からの扱いなんて価値の有無がすべてじゃないか。それが何だか、無性に許せなかった。

「それ以外に認識のしようがありますかねェ。本当、退屈な事象ですよ」

 黒コートの男は帽子を深く被りなおし、やれやれと肩を竦める。うっすらとした金の眼が虚空を捉えてニンマリと意味深に笑んだ。そして何事もなかったかのように姿を消したのだった。


◆ ◆ ◆



 何気なく見上げた空には鈍色の雲がわいて広がり、ぽつりぽつりと雨粒が降りだした。静かに降っていた雨はやがて激しくなり、気づけばすっかり濡れ鼠になっていた。自然な天候の変化など無くなって久しい。
 ここ半世紀ほど人類はそれに振りまわされなくなったはずである。この近年はどこの階層都市も術式による空調管理が行き届いており、不満を感じることも安易に体調を崩すことも無かった。しかし、弱りきった身体である以上このまま濡れ続けたら本当に風邪でもひきそうだ。
 一人の青年が壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。最後に食事を摂ったのはいつだったか。空腹も度を越して、感覚的に分からなくなってきた。
 見かねて声がかけられたのが先か、傘を差し出されたのが先か。軽く膝を折って視線を屈め、こちらを覗き込む人間がいた。男なのか女なのかはっきりしないが、柔らかな印象を与える顔立ちをしている。

「店の前で倒れられるなんて洒落になりませんよ。ほら、立ってください」

 敵意は無いようだが、何処の誰とも分からない人間を助けようなどとは酔狂な。しかし、これを逃せばこのまま終わる事になるかも知れない。そんなのはご免だった。肩を借りるように支えられて、ふらつきながらもジンは立ち上がる。その視線の高さは自分と同じくらいだが、まさかこんなに軽々とされるとは思わなかった。
 男にされるまま、雑居ビルの地下部分へと伸びる階段を降りはじめる。ドアの開閉に合わせてベルが鳴った。近くにあったボックス席にジンを座らせ、カウンターの向こうから乾いたバスタオルを投げて寄越す。
 それから運ばれてきたのは消化に良さそうな雑炊だった。昨日の余り物で作ったらしいが、とてもそうは見えない。暖かな匂いに、腹の虫がきゅうっと鳴った。気づけば半分ほど食べ進め、無言で二杯三杯と平らげていく。名前とか何処から来たとか、他愛の無い話しに混ざって色々と訊かれた。

「お部屋、ひとつ余っているのですが……ジンさん、どうですか」
「どう……とは」
「この店で勤めてみませんか?」

 正気なのだろうか。ジンはちらりと視線を流し、その様子を窺う。この店を切り盛りしていると言ったマスターの青年は、にこにこと笑顔を崩さない。経験上、この手の人間が折れるのは難儀する。特に断る理由も無かったが、行くアテが見つかるまでなら、と深く考えずに頷いた。

「待遇が良すぎないか?」
「良いんですよ。これくらい投資しませんと、他所に引き抜かれてしまいます」

 彼なりに冗談めかしたつもりだろうが、表情は繕えても声に出ている。これは将来を見越している、期待されていると取っても良いのだろうか? 何であれその日のうちにジンに宛がわれたのは、ビルの二階にあるひと部屋だった。ワンルームだがキッチンが備えてあり、ダイニングまである。しかも最低限の家具まで揃っていて、至れり尽くせりだった。