第一章 将校様と夜会の花
旅芸人や行商人たちがこぞって列を作り、設けられた関所を越えていく。彼らが目指すレムギア帝国は、あたり一面に見えるこのルウェン汽水湖を囲んだ中立領の先になる。この湖で水揚げされたコリコリとした食感が癖になるミゼル貝や、淡白でいて肉厚な白身の翼魚を運んでく男たちの活気は大変に目覚ましい。
中立地帯を離れて一歩レムギアの国内に入れば、まず視界に入るのは北西へと山を這うように続く岩肌に守られた堅固な領土。その反対側に視線を移すと、東南部には未開の森と呼ばれる森林地帯が広がり、ロイス聖王国やアズマ東央連合国へと抜けるための裏道になる。
このように自然の加護を幾重にも受けた魔術国家レムギア。かつては聖王国へと牙を向けた大国であるが、今現在この国を治めるのは十三歳と幼くも賢帝とまで称えられる少年王だ。
かつて起こったレムギアとロイスによる三年戦争。それは先代の皇帝・アドラー二世が始めた一方的な侵略行為だった。補給地であるザームが陥落したのを足がかりに、最前線に立った彼が討ち取られたことでレムギアは完全に戦意を喪失。アズマによる調停のもと講和条約が締結した。
それから半年ほどが経過しようとしていた、春先の首都ルブルム。
二頭立ての馬車が悠々とすれ違えるほどの石畳の街道が、縦横と網目状に伸びて広がる。街一番の大通りであるシャーロッテ通りを、各都市経由の馬車が忙しなく行き交う。煉瓦造りの落ちついた家屋がひしめきあい、大きな鐘を供えた教会が、さらにその奥には近衛の常駐する軍部が、それからアドラー三世が住まう宮殿までもが遠目にも見える。
この街には都市部につきものの悪臭がほとんど感じられない。清掃系統までもが正常に機能している証拠だ。しかし、いくらこうして体裁を整えようとも都市全体を覆う退廃感だけは拭えないものである。どれだけ洗練された街並みであろうとも、道行く人々から感じる空気は依然として重苦しかった。
「クロイツ少佐殿は居るかね。一七〇〇、いつもの通りだ。――ではな」
ノックの音とともに現れたのは鳶色の髪をオールバックに撫でつけ、深緑の制服をきっちりと着こなした壮年の男だった。手短に用件だけを伝えてきたが、その眉間には皺が寄りきっている。彼こそは先の戦争の功労者とでもいうべき人物、カイン=クロイツ特務少将だ。
双方の国で百万人ほどの死者を出した先の戦い。領地のダリムから魔術師たちを率いた彼は、鉱山都市レイルをわずか三日という短期間で攻略した。魔剣士伯との異名があるとおり、司書でありながらもその剣技には老いてなお冴えるものがある。
「待て、勝手に決めるな。私は貴官に構えるほど暇では……」
「ではな、少佐殿」
青年将校の言葉を遮るかのようにバタンと一方的に閉められた執務室のドア。相変わらずの無茶ぶりに、彼はありありと渋面になる。すると、部下たちなりに気を利かせたつもりなのだろう「確か先約がおありでしたよね、少佐」と話しを振ってくる。その様子にいつもの光景だと思いながら、なんとか発した言葉は重たく「伍長は居るか」のたった一言だけ。
このレムギアでは魔術師としての才能、それこそ触媒に対する処理能力から対応力といったものが重要視される風潮がある。そんな環境下であって近衛の青年将校であるセス=クロイツ少佐は、生まれながらに一切触媒に働きかけができないという特異な体質の持ち主だった。
生まれでこそ魔術師の名門として名のあがる家柄だが、彼には何の才能も無いのである。それに加えて滅多に社交界に出ない様子を皮肉ってか、特務少将の愛人とまで囁かれる始末だ。これには眉間に皺も寄せたくなる。
「…………。はー……私なら居る。入ってくれ」
重い腰をあげて席を立とうとして、タイミングよく控えめなノックが響く。コンコンと軽く丁寧に叩くそれは、これから探そうとしていた伍長のものだった。これは渡りに舟とばかりに招き入れようとして、その後の展開を考えると再び眉間に皺が。そんな姿も見越していたのだろうか、伍長の女性は「二十四回目ですよ。新記録ですね」と笑顔で無慈悲に告げた。
「特務少将、本当に少佐のことはお構いなしですね」
「私にはいつもだろう。気にする必要はない」
ぱっつんと揃えられた前髪から窺えるのは、覗き込む角度で色味が違って見える不思議な紫水晶の眼差し。彼女は浮かべて見せる明るい表情とはうって変わって、実に淡々と業務をこなしていく。
渡された書類の山を確認がてら執務机の上に置くと、セスは「伍長は今日も減給だ」と言いながら色とりどりの飴玉を小さな手のひらに転がす。しばらくして表情を綻ばせた彼女は「これだから止められないんですよねえ」と呟いて飴の包みを剥がしていた。