第一幕 将校様と夜会の花
旅芸人や行商人たちがこぞって列を作り、設けられた関所を越えていく。彼らが目指すレムギア帝国は、あたり一面に見えるこのルウェン汽水湖を囲んだ中立領の先になる。この湖で水揚げされたコリコリとした食感が癖になるミゼル貝や、淡白でいて肉厚な白身の翼魚を運んでく男たちの活気は大変に目覚ましい。
中立地帯を離れて一歩レムギアの国内に入れば、まず視界に入るのは北西へと山を這うように続く岩肌に守られた堅固な領土。その反対側に視線を移すと、東南部には未開の森と呼ばれる森林地帯が広がり、ロイス聖王国やアズマ東央連合国へと抜けるための裏道になる。
このように自然の加護を幾重にも受けた魔術国家レムギア。かつては聖王国へと牙を向けた大国であるが、今現在この国を治めるのは十三歳と幼くも賢帝とまで称えられる少年王だ。
かつて起こったレムギアとロイスによる三年戦争。それは先代の皇帝・アドラー二世が始めた一方的な侵略行為だった。補給地であるザームが陥落したのを足がかりに、最前線に立った彼が討ち取られたことでレムギアは完全に戦意を喪失。アズマによる調停のもと講和条約が締結した。
それから半年ほどが経過しようとしていた、春先の首都ルブルム。
二頭立ての馬車が悠々とすれ違えるほどの石畳の街道が、縦横と網目状に伸びて広がる。街一番の大通りであるシャーロッテ通りを、各都市経由の馬車が忙しなく行き交う。煉瓦造りの落ちついた家屋がひしめきあい、大きな鐘を供えた教会が、さらにその奥には近衛の常駐する軍部が、それからアドラー三世が住まう宮殿までもが遠目にも見える。
この街には都市部につきものの悪臭がほとんど感じられない。清掃系統までもが正常に機能している証拠だ。しかし、いくらこうして体裁を整えようとも都市全体を覆う退廃感だけは拭えないものである。どれだけ洗練された街並みであろうとも、道行く人々から感じる空気は依然として重苦しかった。
「クロイツ少佐殿は居るかね。一七〇〇、いつもの通りだ。――ではな」
ノックの音とともに現れたのは鳶色の髪をオールバックに撫でつけ、深緑の制服をきっちりと着こなした壮年の男だった。手短に用件だけを伝えてきたが、その眉間には皺が寄りきっている。彼こそは先の戦争の功労者とでもいうべき人物、カイン=クロイツ特務少将だ。
双方の国で百万人ほどの死者を出した先の戦い。領地のダリムから魔術師たちを率いた彼は、鉱山都市レイルをわずか三日という短期間で攻略した。魔剣士伯との異名があるとおり、司書でありながらもその剣技には老いてなお冴えるものがある。
「待て、勝手に決めるな。私は貴官に構えるほど暇では……」
「ではな、少佐殿」
青年将校の言葉を遮るかのようにバタンと一方的に閉められた執務室のドア。相変わらずの無茶ぶりに、彼はありありと渋面になる。すると、部下たちなりに気を利かせたつもりなのだろう「確か先約がおありでしたよね、少佐」と話しを振ってくる。その様子にいつもの光景だと思いながら、なんとか発した言葉は重たく「伍長は居るか」のたった一言だけ。
このレムギアでは魔術師としての才能、それこそ触媒に対する処理能力から対応力といったものが重要視される風潮がある。そんな環境下であって近衛の青年将校であるセス=クロイツ少佐は、生まれながらに一切触媒に働きかけができないという特異な体質の持ち主だった。
生まれでこそ魔術師の名門として名のあがる家柄だが、彼には何の才能も無いのである。それに加えて滅多に社交界に出ない様子を皮肉ってか、特務少将の愛人とまで囁かれる始末だ。これには眉間に皺も寄せたくなる。
「…………。はー……私なら居る。入ってくれ」
重い腰をあげて席を立とうとして、タイミングよく控えめなノックが響く。コンコンと軽く丁寧に叩くそれは、これから探そうとしていた伍長のものだった。これは渡りに舟とばかりに招き入れようとして、その後の展開を考えると再び眉間に皺が。そんな姿も見越していたのだろうか、伍長の女性は「二十四回目ですよ。新記録ですね」と笑顔で無慈悲に告げた。
「特務少将、本当に少佐のことはお構いなしですね」
「私にはいつもだろう。気にする必要はない」
ぱっつんと揃えられた前髪から窺えるのは、覗き込む角度で色味が違って見える不思議な紫水晶の眼差し。彼女は浮かべて見せる明るい表情とはうって変わって、実に淡々と業務をこなしていく。
渡された書類の山を確認がてら執務机の上に置くと、セスは「伍長は今日も減給だ」と言いながら色とりどりの飴玉を小さな手のひらに転がす。しばらくして表情を綻ばせた彼女は「これだから止められないんですよねえ」と呟いて飴の包みを剥がしていた。
「はあ……やはり気が重いな」
定刻になりセスが向かったのは冷えた空気の流れる軍部の地下、牢が左右に連なって広がる通路の先だった。石造りの床を踏むたび、カツと硬い靴音が響く。牢屋に入れられた魔術師たちは無力化されていることもあり、青年が歩を進めるたびに独房で身を縮めてはひとりガタガタと震える。犯罪者とはいえ生身の人間だ。次に処断されるのは自分だろうか、と言いようのない不安や恐怖に駆られるのだろう。そんなことなら最初から法を破らなければ良いのではないかと思うのだが。
行きついた先に見えたのは錆びついた鉄の扉。ギィッとそれを開ければ、そこには旧時代的な拷問室が広がっていた。ランタンひとつが光源の薄暗い室内にはずらりと拷問器具が並び、壁には黒く酸化した血痕が無数に散っている。それをひとしきり眺めていたカイン伯爵は歪な笑みを口端に浮かべ「座りたまえ」と古びた木製の椅子を勧めた。
「今日は少しばかり趣向を変えようと思ってな。どうだ、懐かしい香だと思わないかね」
促されるまま椅子に座ると、セスは後ろ手に拘束される。なぜならこの拷問部屋も他の牢屋と同じように、対魔術師用の特殊な仕掛けが施されているからだ。室内では疑似的に一切の魔術が扱えなくなるのだという。そんな空間に身柄を拘束されつづけたら、日頃から元素や触媒の恩恵を受けている人間ならば耐えられないだろう。反抗されるのを警戒してのことだろうが、ただの壮年と化したカイン伯爵には、簡単な尋問とはいえ精神的な余裕や保険が欲しいのだと窺えた。
「この匂いは……しまっ――」
音もなく鼻先にぶら下げられたのは、手のひらに収まる程度の大きさの香炉だった。そこから漂うのは少しばかり粉っぽい、それでいてほんのりと甘みのある独特の香り。その香りには確かな覚えがあり、懐かしさと同時に胸の奥が締めつけられるような気がした。つい声をあげてしまい、セスは思いきり吸い込んでしまう。
そんな有り様を哄笑したカイン伯爵は匂いを漂わせるよう、眼前で振り子のように香炉を揺らした。嗅覚が麻痺してきた頃合いになると、今度はじわりと額に汗が滲んでくる。媚情を催す蠱惑香と麻痺香に、雪中草の花蜜でも練り込んだ特注品なのだろうか。雪中草の香りは好きだが、だからと言って男に用意されても嬉しくない組み合わせだ。
「婦人にこれは厳しいだろうが、貴様に遠慮は要るまい。私の胎は何処だね、答えろ」
「何度も言って、いる……! 僕は、知らない……ッ」
「これだけの目に遭っても吐かないとは実に強情よな。余計な手間が増えるだろう、倅」
麻痺香には少し変わった性質があり、一度嗅ぐと身体に抗体ができるのだ。しかしながら初めて嗅ぐ麻痺香の調合比率に、とうとうセスは身動きひとつ満足に取れなくなる。それでいて欲求だけを刺激され続けるというのは苦しい以外に喩えようがない。
だらだらと汗を垂らしながら必死に乱れる呼吸を殺す。息子から返ってきた変わりばえのない答えに、深く溜め息を洩らしたカイン伯爵は、器具から飛び出た杭に香炉をぶら下げてそれきり姿を消した。その会話を最後に耐えつづけること三十分ほどが経過しただろうか。ようやく麻痺香の成分が抜けだして、少しずつだが身体に感覚が戻ってくる。まるでそれを見計らったかのように、ほんの少しだけ開けられる拷問部屋のドア。
外から入ってくる新鮮な空気のおかげで、わずかばかり呼吸が楽になる。部屋を満たしていた匂いが薄くなり、それが無くなったタイミングを見て一人の青年司書が近寄ってくる。彼は慣れた手つきで拘束具を外すと、置かれたランタンの残り火でセスの顔色を見ようとしてその表情を照らす。
「……つっ! 悪趣味だぞ、兄さん」
「そう言うなよ、ちゃんと助けにきただろ。これ、お兄ちゃんが飲ませてやろうか?」
悪態をつかれてもなおニヤニヤと軽薄そうに笑うのは兄のナハトだ。臨時枠の司書として勤めている彼が先約の相手になる。日頃の派手な装いでないせいか誰に気づかれることなく勤めているようだった。面倒くさそうにベレー帽を脱いだ髪がふわりと軽く揺れ、度の入っていないメガネから紅と翠の異なる瞳が覗く。
思い出したように差し出されたのは解毒剤の詰まった小瓶。渡そうとしておきながらも、セスが手にしようとする寸前で意地悪く引っ込める。そうやってこちらの反応で遊ぶ様子に安堵を覚えながらも、なかなか薬を渡さないことに怒りを込めてその脛を蹴った。大袈裟に痛がる兄から薬を調達すると拘束から自由になった手で小さな瓶の中身を飲み干す。
「しかし相変わらずだな、クソ親父も。あの子をなんだと思ってやがるんだ」
「……兄さん、ひとつ訊いても良いか。知っているなら教えてくれ、彼女の行方を」
今から六年近くも前、忽然とクロイツ家から姿を消したシエルという少女がいる。父であるカイン伯爵と旧知で同門だった男・クロード=ヴァンベルグ伯爵の忘れ形見のひとつだ。アドラーの再来とまで言われた天才の血を引く彼女は、魔術王の遺産とまで称されるほどである。実際その直系なのだし間違いではないのだろうが、父が少女に執心する理由はきっとそれだけでは無いと思っている。
あの当時、あらゆる手段を使って行方を捜したが、結局シエルは見つからないままだ。なにかと可愛がっていた兄ならもしや、と冷静になって思い至る。いつも上手くはぐらかされていた気がするが、今ならあっさりと教えてくれそうな気がする。――そんな、直感にも等しい感覚。
「今さら知ってどうするんだよ。あの頃には戻れないんだぜ」
「それでもだ」
引き合いに出されても仕方のない綺麗な過去。それに戻りたい訳でもないことくらい、彼だって分かっているだろうに。今まで散々はぐらかしておいてとも思うが、兄には兄なりに一応の考えがあってのことだろうと思いたいところである。セスが引かないでいると、ナハトは折れたようだった。
彼の懐から出されたのは一枚の令状。そこには宮廷で行われる夜会警護の任が記してあった。最低でも一人は司書を同伴させること。それが条件だった。魔術の才能が薄い者の集まりが近衛隊だ。宮廷に赴くのであれば司書の同伴を求められるのも頷ける。しかしどういう理由か、同伴者としてすでにナハトの名前が記名されているではないか。それについて問おうとすれば兄は恥ずかしそうにぼそりとこぼす。
「俺さ、宮廷にだけは行ったことねーんだよ。滅多にチャンスも無いしさ、後学には変えられねぇじゃん?」
「もっともらしいことを言うが、ほどほどにしてくれよ。後始末をするのは僕なんだからな」
はあと小さく息を洩らすも、内心では心強く思っているなどと極秘事項だ。そんな弟の様子が納得いかないのか、ナハトは「俺だってやれば出来るもんな!」と喚いて謎の対抗意識を剥き出しにする。大人げない兄の相手もそこそこに肌寒かった地下を抜けると、今度は暖かいのを過ぎて暑いくらいの地上に出る。彼女へと続く唯一の手がかり。それを見つけたのは、春先も終わろうとしていた日の夕刻であった。
路肩に停まっていた馬車に乗り、青年はひとり帰路につく。
ふと見やった視線の先、左手の薬指にはくすんだシルバーリングがある。これが今更になって枷になるなんて。いいや、これがあっても無くても結果は同じか。そう思えば、いくらか心は慰められるものだ。
形だけの所帯を持って数年、まるで形骸のように月日は流れていった。妻になった女の狙いはクロイツ家の持つ権威――それだけだ。彼女の戯れで求められたこともあったが、その時ばかりは「その手合いの趣味が」と嘘を口にしたのだ。絶倫が過ぎて妻に逃げられたやら、実は男色の趣味があるだとか。それは滅多に社交界に顔を出さない男を揶揄って流れた噂に過ぎなかったが、本人が言葉にしたことで図らずとも何かを確信させたようだった。食事を一緒に摂った覚えがない。そんな風に冷えきった屋敷であっても、きちんと帰るのには理由があった。
「ただいま、シェリー」
「お帰りなさい、お兄様。なんだか今日は嬉しそう、良いことでもあったの?」
馬車を降りて静かに門扉をくぐるとランタンのともし火を確認する。その位置が間違いないことを確認してから、人の気配がない廊下を進み、たどりついた部屋の扉をノックした。部屋から出てきた少女は男を視界に収めると、嬉しそうに破顔して抱きつく。それを受け留めたセスは「ああ」と短く返しては彼女を抱えあげ、そっとベッドに下ろしてやる。
「……まったく。先に休んでいろと、あれほど言ってるじゃないか。シェリー」
「い・や! わたしだってお兄様に会いたいもの」
薄手の毛布もじきに暑くなる季節が近づいてきた。それを掛けてやりながら、枕に伸び広がる髪を撫でて梳る。見慣れた仕草であっても嬉しそうにしていたシェリーだったが、兄の要求は飲みたくないのかぷくりと膨れつらになった。まだまだ甘えたい年頃なのか。そう思えば、記憶の底にある綺麗な少女とダブって重なる。なぜなら彼女も青年をそのように呼んで慕っていたからだ。
慕っていた。そういえば聞こえはいいが、実際はどうだったのだろう。あの時の答えもいまだに――いいや、帰郷したさいに約束の場所に来なかったのだから、それが何よりの答えじゃないか。なにを今更になって期待するような真似をして傷を広げているのだろう。
「おやすみ、シェリー」
「ええ。おやすみなさい、お兄様」
閉じられた瞼に彼はそっと口づけを落とす。そうして彼女が寝つくまでソファーに腰を落ちつけて過ごす。それが二年前から続く生活の基盤になったのだ。それはどうしてだっけ? ふと思い返してみて、仕事で三日ほど屋敷に帰らなかった時のことを思い出した。帰ってきた家主の男を出迎えたシェリーは、はっきりと目元にクマを作っていた。食事もろくに喉を通らなかったようで散々だったと、メイドにこっぴどく叱られた。それからは可能な限り帰宅するようになったのだった。
そのまま彼の意識は沈んでいく。深く、暗い、底のさらに奥底へと――。
たどりついた夢のなかで、ゆっくりと瞼を開ける。そこには見慣れた父の書斎があって、でもその視線は腰より低く這いつくばるよう。拘束魔術で捻りあげられた腕は満足に動かず、姿勢さえも固定されてしまう。滑稽なまでに無様だ。そう、何度目かの苦虫を噛み砕いたところで、眼前で惜しげもなく開かれている少女の裸体が震える。
間違いなく、六年前のあの時だと嫌でも理解する。抗っても、どれだけ声を枯らしても覆らない情景。彼女は、シエルは、あの男の手によって散らされるのだ。父親のように慕う男の手によって。熟達した性技に、少女が苦痛を訴えることは無かった。それがせめてもの救いだったのかもしれない。熟したばかりの胎にこれでもかと残されて。先を越されたことよりも、あらゆる手を尽くしたのに守りきれなかったことのほうが辛かった。
でも――乱れて蕩けていくシエルの表情は、今まで見たどの女のそれより淫らで美しいと感じた。そう思った時点で、自分も目の前の男と同罪な気がした。頬にべったりと塗りたくられたのは少女の愛蜜。その生暖かさが、いまだに記憶からも拭えない。声を絞ろうとして開けた口にねじ込まれた指先から感じたのは、真雪に埋もれて咲く野草の蜜と似たような味がした。
自分と父は元より、彼女と自分。お互いのあいだに一線を引いたのは、その一件が引き金になったのは明白だった。シエルと出会って数年、最初はナハトに巻き込まれる形だったが、自分なりに思い描いていた計画があった。お互いの距離が明確になることで、改めて実行できるチャンスだとも思った。
そうして訪れた、四度目の冬。
あれこれと言葉を考えながら、シエルが好きな教会のステンドグラスを眺めていた。約束の時間まで待っていたが、彼女は来なかった。それが何よりの答えだと思った。だから意固地になって身を固めることを良しとしたのだ。了承のサインなど到底出るはずもなく、それでいて屋敷では共同の生活を送ることとなった。
じきに三年戦争がはじまって、その時はアドラー二世が前線に立って指揮を執った。本部に残った彼は、近衛たちを率いて首都の守りを固めたのだ。シェリーを拾ったのは厳戒態勢のルブルムを警邏していた時だった。気に掛ける対象があれば、何かが変わる気がして必死だったのだろう。引き取ることに対して躍起になった記憶が真新しい。
「……ん。……朝、か……」
ゆっくりと開け放たれたカーテンから柔らかな陽射しが差し込む。それが朝を告げたものであることは、部屋の中を飛びまわる生き物が囀ずることで証明している。もぞりと寝返りをうてば、昨晩シェリーに掛けてやったはずの毛布がずり落ちてきた。どうやら、あのまま寝落ちてしまっていたらしい。
忙しなく飛びまわる生き物を小鳥だと認識したセスは、ぼーっとしながら目線で追う。チィチィと小さく鳴きながら飼い主の指先に止まり、ちょんちょんっと跳ねては自分から鳥かごの中へと入ってく。それを確認すると、ゆっくり下される格子戸。
「紐、留めてくださる? お兄様」
「あ……ああ。構わないぞ」
シェリーはコルセットの紐を結びかけて、思い出したかのように兄の表情を覗く。何気ないそんな仕草が起き抜けたばかりの理性をざらりと削った。そうして自分を試しているのか? そのように訊ねれば否であろう。なら、やっぱり単純に甘えたいだけなのか。そう結論づけると、黙ってコルセットの紐を留めてやる自分がいる。上手く誘導されているような気がするが、なんだかそれも悪くないなどと思ってしまう。
「お兄様。お兄様はこの国で一番お若い調教師様ってご存知?」
「それは僕の管轄では無いから詳しいわけでは……。なんだ、興味があるのか?」
「ええ、とても! 楽しいお話しが伺えそうだもの」
ぱぁっと瞳を輝かせた少女の無邪気さは罪だ。楽しいか有益かは置いておいて、そんな表情をされたら会わせてやりたくなるものである。どんな理由をつけて調教師の身柄を確保すべきか。そもそも子供の相手をさせるために喚べるものなのだろうか? 妹の喜ぶ姿を想像してみて表情を緩めるも、青年の疑問は朝から尽きなかった。
穏やかな日に限って時間が経つのは早く、気づけば夕暮れが迫っていた。
ぱちりと目を覚ました少女は、豪奢な天蓋つきのベッドから身を起こす。鏡に映った自身の姿はシュミーズ一枚にショーツだけ――と、簡素でいてやけに扇情的な寝姿だった。欠伸を噛みながらクロゼットを開け放ち、慣れた仕草で今夜のドレスを選びだす作業。深紅と漆黒が折り重なってベルラインのシルエットを形作る。短いスカートの広がりにパニエで膨らみをもたせた意匠のドレスを引っ張り出すと、あっという間に着つけてしまう。
それから部屋にある鏡台に落ち着けば、何よりも先に髪を梳る。櫛を入れながら丁寧に整えて、サテン地のリボンにレースと金細工が散りばめられた髪飾りでワンポイントに留めた。化粧を整えなおし、お気に入りの香水を纏えば出かける準備は整ったようなものだ。
「もう出られるのですか? シエル様」
「ええ。留守をお願いね、皆」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
今日の夜会は宮廷の第四会場で行われるとのことだった。ロイス聖王国からの来賓も見える趣向に、今夜こそ何かがあるような気がしてならない。過度な期待は禁物だが、それでも心がざわめくのは事実だ。公認の調教師である身分を示す懐中時計を見せれば、シエルは滞りなく会場へと案内されていく。天井を見れば豪奢なシャンデリアが垂れ下がり、この会場内を明るく照らす。石柱には繊細な彫刻が隙間なく施され、蝋燭には宮廷魔術師によって魔術の炎が灯されていた。
今夜も弦楽団が緩やかな音楽を奏でて、これでもかと贅を尽くした料理が振る舞われる。それを口にしては貴族たちが何かを自慢しあっていた。彼らが話題に挙げているのは所有している奴隷階級の人間――言うまでもなく貴隷についてだろう。貴隷とは貴族たちが所有する性玩具とでも呼ぶべき特別な奴隷だ。一般的な奴隷と著しく異なるのは、貴隷となった以上は相応に着飾ることを許され、ある程度の社会的地位と、破格な金銭収入が約束されている点だろうか。所有者である主人の格を示すためなら、文字通り『どんな奉仕』でもするのだという。志願しなければなれない特異な奴隷階級でもある。
この社交場でも夕刻から夜までを夜会と呼び、それより二刻ほどが経過すると蜜会と呼ばれるようになる。夜会は主に立食式のパーティになっており、貴隷との性交は許されていない。しかし、蜜会ともなると所有者の許しさえあれば姦通すら許される狂気の宴と化す。本来であればこのような催しを連日開けるほど、国の財政に余裕など無い。だが、この嫌味ともとれるほどの絢爛さは、両国双方とも心地よく外交を進めたいがための演出でしかないと感じてしまうのだ。
「おお、シエル殿のあのくびれた腰つき」
「美しい脚のライン、堪りませんなあ」
帝国の首都ルブルム。煌びやかな宮廷社交界で噂の貴隷調教師と言えば、まだ齢十八と年若い少女・シエル=ヴァンベルグのことだろうか。アドラーの再来とまで呼ばれた父を持つ彼女が首都の社交界、しかも夜会に現れた時には場が騒然となった。あの天才魔術師の血をひく胎なのだ、さぞかし魔術師としても母体としても申し分ないだろう――と。静かに歩を進めるシエルの姿に、そこに居合わせた紳士たちは目を向ける。この国の男であれば誰もが欲するだろう胎には、すでに子が宿っているかもしれないからだ。
故ヴァンベルグ伯爵の三人の子たち。彼女たちの後見人をつとめた家柄に、伯爵家の一角であるクロイツ家の名前が挙がる。そこの家督である壮年の紳士が、熱心に求婚していたのも事実であり、誰もがそこに嫁いだのだろうと疑わなかった。だが、実際にはどこにも嫁いでおらず、ましてや胎に子などもいない。周囲は彼女の思惑どおり面白いくらい勝手にそう思い込んだ。
この国に居る以上、どうせあの男からは逃げられない。だからと言って最初から足掻かないのは、何かが違って。たとえ往生際が悪かろうとも、できうる限りは足掻いてみせると心に決めたのだった。
「シエル殿。こちらをどうか」
「あら、ありがとう。おじ様」
調教師の少女へと挨拶代わりに差し出されるグラス。中を満たすワインを口にするたび、こくっと細い喉が鳴った。シエルが歩を進めるたび忙しなく動く脚線の美しさに紳士たちの視線は釘づけになる。これで貴婦人だと言うのだから扱いに困る。そんな心中を察してのことだろう彼女が浮かべる笑みはどこか悪戯めいていた。
道楽。貴族たちのそれと言えば、やはり奴隷階級の人間を飼うことだろうか。犬や猫といった動物よりずっと賢く、ちょっとやそっとでは死なない耐久性。あらゆる利便性を追求した結果だろう、人買いにより闇雲に子供をさらう事件が増えてきている。そのように姉が嘆いていたのを思い出す。
「……ずいぶんと珍しいのね。今夜は来て正解だったわ」
そんなことを思い出していると、いつもより少し会場が賑わっていることに気づく。何気なく視線を移ろわせていれば、それは緩やかに一点へと固定される。夜会では見慣れない、年若い近衛の姿がそこにあったからだ。
短く揃えられた鳶色の髪を撫でつけ、鋭い目元の枠内を満たすのは翡翠の瞳。神経質そうに寄せられた眉間が少しだけ残念な気がするが、それであっても美男であることには変わりがない。体格も逞しく骨太で、四つん這いにさせてその広い背中を椅子にするのが丁度よさそうである。
「シエルよ。ええと」
「……セスで良い」
「分かったわ。セス様」
ふと、示し合わせたように互いを認識する。周囲の人波はたちまち引いていき、ぽつんと二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。青年に続きを促すよう、シエルは言葉を切る。わざとらしいと分かっていても、最適解はこれだろうと思う。少女の意図を汲み取ったのだろうか、セスと名乗った男は淡々と口を開いた。
敬称は不要だと言いたかったのかは定かでないが、懐中時計を見ていた視線が真っすぐにシエルを見据え、それでいて不快感をあらわにした。そうは言っても彼が帝国の軍人で、将校なのは火を見るよりも明らかだ。濃紺の燕尾のようなシルエットに、ところどころ施された金の装飾が豪華さを表している。少佐の階級章が胸元に慎ましく座していた。
「あの頃は尉官だったのに。……驚いたわ」
「そう言うお前こそ、調教師などと道楽をはじめていたとはな」
「似合わない?」
「さあな」
互いに家名を出さないのが最低限の関わりでいい。そのように言いたげで、六年越しの再会はひどく乾いていて、かすかに軋みを伴ったものだった。あれこれと考え込むシエルをよそに、彼はワイングラスに手を伸ばす。その所作は手慣れているが、決して軟派なようには見えない。相変わらず生真面目な堅物気質なのだと窺えた。
ひとまず思考を落ち着けると互いの近況を探りあう。その手元を見れば、くすんだ銀の指輪に目がいった。どこぞの娘と身を固めざるをえない立場で、彼はどんな心持ちで受け入れたのだろう。そもそも、本当に心から承服できるような相手だったのかも謎であるが。
「馬鹿馬鹿しい。こんなの不貞の合法化じゃないか」
「たとえそうであっても需要があるから成り立つ制度よ。そもそも貴隷には志願しなければなれないのだしね。これだって立派な取り引きよ」
この会場のどこかで、ぴしゃんぴしゃんとスパンキングが始まった。なめした革で編まれた一本の鞭がしなって容赦なく素肌へと振るわれる。主人から理不尽な叱責を受けてもなお、貴隷は悦んで失禁してみせなければならない。その様子を誰もがせせら笑うが、シエルは元よりセスも微動だにしなかった。
「そこまでいくと詭弁だな」
「ふふ。貴方のことだもの、言うと思ったわ」
フンと鼻を鳴らしてそらされる視線。それはなんだか機嫌を損ねた子供のように感じなくもない。男の様子にくすりと小さく笑ったシエルは、無邪気に腕を引いて夜会を見てまわる。近衛である彼の職務は、来賓があることを考えてもこの会場の警護だろう。
それを考えたら、場に詳しい好事家のひとりは連れておくべきだと思うのだ。絢爛な会場を離れて、どことなく暗鬱とした区画に足を踏み入れた。ここでは素材である子供が売り買いされている。見るに堪えないほど劣悪な環境も、職務とは別に知っておいて損はないだろう。早速と言っていいほど聞こえてきた罵声に足を止めた。
「本当に気味が悪い! お前のせいで商売上がったりじゃないか!」
なかば八つ当たりのように暴言を吐きながら、中年の奴隷商人は足元で震える小さな存在に目がけて拳を握る。それが子供を狙ったものであると分かれば、セスは無言で止めに入った。脂ぎって肥えた男の下で震えていたのは、自身の商品である子供だ。年齢は十二くらいだろうか、粗末な麻のシャツ一枚を着ているだけで、不健康に痩せ細った手足が身体を支えている。シエルはその片目を隠すように伸びた前髪が不自然で、以前からずっと気になっていたのだ。
「……っ! お止めください……っ」
この子供、ひょっとしたら。前々から見かけていたが、確認するいい機会かもしれない。意を決した調教師の少女は静かに歩み寄り、そっと子供の前髪をどけてやる。拒絶の言葉を紡ぐ声は可愛らしい顔立ちに反して熟していた。しかし、その意思表示とは裏腹に怯えているのが見て取れる。それでも調教師である以上、正確には魔術師の端くれである以上は確かめなければならないのだ。この少年が隠している片目を。
不自然に伸びた前髪をどければ、瞳の色は左右で異なった。オッドアイと呼ばれる単純な身体的特徴。そしてもしかしたら、悪魔憑きなどと呼ばれては迫害され、忌避される存在かもしれないからだ。出自も不詳なことが多い彼ら悪魔憑きだが、魔術師としての才能に非常に富んでいる。かの魔術王でありレムギアの建国者クロウ=アドラーもそのように伝承されているし、肖像画で見た限りでは自分の父親もそうだったようだ。
「ねえ、おじ様。この素材はおいくらかしら」
「おいおい、お嬢ちゃん。ここは遊び場じゃ……」
言いかけた中年の言葉はそこで止まる。何故なら大人ひとりが一ヶ月は楽に遊んで暮らせる金を、簡単に、躊躇らうことなく渡されたからだ。黙った理由はそれだけではなく、追い討ちをかけるよう青年将校から商品へのずさんさを指摘されたからだろう。管理局へと報告する旨をチラつかされ、店主は観念した様子で身柄を引き渡した。
「貴方、名前は」
「俺に名前、なんて……」
「……そう。今日からアインツと、そのように名乗りなさい」
助けた少年はそれきり俯いた。彼のように名前のない奴隷というのも珍しくはない。親が奴隷階級の人間で、それこそ真っ当な扱いを受けてこなかったのだろう。売り買いされている奴隷の扱いは買い取ってしまえば主人に一任される。
せっかくだから魔術を教えてやるのも楽しそうだし、それなら小間使いの名目で置くのが妥当だろうか。どうにも女所帯で、これという男手に欠けるのも事実だ。帰ったら適当に食事を摂らせ、まずはその前に風呂と服を用意してやるべきだろうか。土産を手に入れ上機嫌の少女は、物珍しそうに周囲を見るアインツの髪を撫でて梳る。手続きがてらセスに別れを告げると、二人で帰路につくのだった。
「お帰りなさいませ、シエル様。これは小さなお客様でございますね」
「これから一緒に過ごす子よ。サラ、貴女からも色々と教えてあげて」
「かしこまりました。それでしたら湯の準備をして参りますね」
屋敷に帰ったシエルたちを出迎えたのは、メイド頭のサラだった。白いブリムを傾けながら、にこやかな微笑をその童顔に浮かべる。彼女にアインツを預けると、急いで整えてある兄の避難部屋へと向かった。カノンらしく整えられたクロゼットから、一組のシャツとパンツを引っ張り出す。
調教師を名乗るのに公的な文言や資格もある。けれども道楽的な側面で言うならば、資格などはあって無いようなものだ。それも手伝ってだろう、衛生管理や最低限の食事すらままならない貴隷や奴隷というのもいる。先ほど見たような奴隷商からアインツへの扱いを見れば、端的にでも窺い知ることができるだろう。
「し、シエル様! た……助けてくださいっ」
その声に慌てて部屋を出れば、駆け寄ってきたのは全裸のアインツだ。何事かと思っているとその後ろを追ってきたのは彼よりも少し幼いメイドの少女。小さな手には浣腸の容器が握られていて、シエルの周囲をぐるぐると追いかけまわす様子には困ったように微笑んだ。
「アインツ。お腹に虫がいると大変だから、ね? 一回だけ我慢して」
「うぅ……」
貴隷はその役割上、常に身綺麗にしておかなければならない。それこそ排泄から恥毛のひとつに至るまでだ。この屋敷で出す食事には、すべて特殊な薬が混ぜてある。摂取すると腸内が浄化され、やがて恥部さながらに透明な粘液を溢れさせるよう、体質そのものを改善してしまうものだ。かくいうシエル自身もそれを口にしている。
おそらくアインツを貴隷用の素材と勘違いしてのことだろう。あらかじめ説明しなかったのが悪いのだし、とにかく彼にもメイドにも悪いことをしてしまった。理由を話して別の用事を与えてやると、容器を受け取って風呂を済ませることにする。慣れた様子で十指を滑らせて丹念に肌を洗い、専用の排泄口で用をたさせると、少しばかりやつれて見えた。浣腸で強制的に排出させたのだから仕方がないが、どうにもこうにも心が痛む。風呂を済ませれば彼に与える部屋へと向かった。
「今日からここが貴方の部屋よ。必要なものがあったら申し出てちょうだい」
「……俺の、部屋……ですか? 大きくて立派すぎます……」
そこにはチェストやクロゼットといった気持ち程度の調度品しかなく、個人に割り当てるには簡素な部屋だ。だが、彼にとってはそのほうが落ち着く気がした。立派とアインツは言葉にしたが、ここまで控え目でもそのように映るのか。とにもかくにも、使用人として真っ当な扱いを受けることに慣れてもらう必要がありそうだ。
頃合いを見て運ばれてきたのは二人分の軽食。ソファーに落ち着いてそれらを口にすると、これからのことを話しつつ静かな時間を過ごす。まずは簡単な読み書きと、その前に身だしなみを整えてやるのが先決だろうか。シエルはあれこれとプランを考えながらアインツの頭を優しく撫で、その日はベッドに入るよう促した。