第二幕 花食みの影




 じんわりと汗ばんだ身体でシエルは飛び起きた。朝にはほど遠い、まだ真夜中の途中である。再び寝入ろうとしたが落ち着かず、コップに一杯だけ水を口にすることにした。井戸端で静かに水を汲みあげ、生ぬるいそれをゆっくりと口にした。
 夢の内容は思い出せないが、まだ心が騒いでいる気がする。むわりとした空気にジィジィと羽虫たちが鳴く様子は、夏が目前であることを教えてくれていた。寝静まった廊下をひたひたと歩き部屋に向かう。物音をたてないようにドアを開けると、暗がりから人の影が見えた。彼女は「アインツなの?」と小声で呼びかけて、それがまったくの別人だと知る。

「俺だよ、俺。暴れないで、俺の可愛い子」
「……もう、ナハト様ったら『また』忍び込んだの? 誰か呼ばれても文句は言えないわよ」
「これくらい訳はねえよ。少し急ぎだったからさ、窓から入ったほうが早いし」

 抱きしめられた瞬間、ほんのり香る甘いコロンの匂い。もふりと靡びく黒毛のファー飾りに、いつもの臙脂色のコートを肩から掛けて羽織っている。淡い紫のベストを着こなしながらも、女性らしいシルエットのドレスシャツからはヘソや腰元がかすかに覗く。彼の挙動に合わせて腰元を飾る真鍮のチェーンがしゃらしゃら鳴って、触れてくる手元はいつもどおり純白の手袋が包んでいる。
 言い分に呆れ返ってシエルは思わずじっとりとした視線を向ける。これと言って悪びれた様子もなく、そんな表情だって可愛くて仕方がないと言いたげに抱きしめてくる。問い詰めるのも馬鹿らしくなりながら腕のなかへと落ちつけば、ナハトは途端にだらしない顔をした。

「明日ちょっとだけ俺に付き合って欲しいんだけど、厳しいか?」
「ずいぶんと急ね。明日なら午後が空いてるわ」
「シャーロッテ通りの三番街、西通りの方向で待ってるよ。じゃあな、ゆっくりお休み」

 手早く要件を伝えた彼は窓ぎわに立ったかと思ったら、掛け声ひとつかけながら屋敷の庭へと木を伝って降りていったではないか。ご丁寧にも侵入経路から出ていった様子に無駄な律儀さを感じたのは言うまでもないだろう。

「考えても仕方がないわね。おやすみなさい、ナハト様」

 シャーロッテ通りの三番街西通り。指定されたその場所は噴水のある広場から二本くらい奥に入ったところだ。住民からは図書館通りなどと呼ばれていて、いくつもの本屋がひしめきあい、休憩のための喫茶店なども集まっている。
 窓から外を見ればナハトが慣れた様子で門を乗り越えたのが見えた。門を越えたり窓から出入りしたほうが早いとか、一体どんな生活をしてきたのか想像もつかない。詮索をしても仕方がないと諦め、大人しくベッドにもぐりなおした。



 夜中のおかしな時間に目が覚めたせいだろうか、その日はいつもよりずっと早く目が覚めた。窓から差し込む陽射しは少し強くて、肌に刺さるようだ。朝食のために身支度を整えたシエルは慌ただしい厨房を覗く。そこではメイドや貴隷たちの胃袋を満たすべく料理の腕が振るわれている。
 ザームで採れた野菜たちは刻まれてポトフとサラダに、豚の腸詰めはフライパンでカリッとするまで焼かれて少しの塩と胡椒《こしょう》をふる。鶏卵の黄身が鮮やかなふんわりとしたオムレツや、焼きたてのトーストもきちんと人数ぶんが並んでいた。

「……シエル様? 珍しいですね、このような時間にお目覚めなんて」
「貴女の言いたいところは分かるわ、サラ。ほら、せっかくの朝食が冷めてしまうわ。皆でいただきましょうよ」

 朝食を済ませると約束の時間に遅れないよう簡単な書類にだけ目を通す。軽く執務を済ませると、ちょうど近くを通りかかったサラに行き先を伝え、日傘をさして屋敷の外へ出た。
 ここから三番街西通りへは少し遠く、十五分くらい歩くことになる。上会から帰る貴族たちとすれ違いながらルブルムの街を歩いた。道中に子供たちが元気に遊ぶ声が響く。その声と比べたら街の空気はまだ重たく、どんよりと沈んだようだ。遊ぶ声も靴音も、突き抜けるような空の青さでさえも、すべてが空虚に感じてしまう。

「飲んでるのアルデンの茶葉か? 本当に好きだな」
「確かに好きなのもあるけれど、アルデンならどんなお菓子でも美味しくいただけるでしょう?」
「どんな菓子でも合うってのもあるだろうが……香りも良くて飲み口が飽きないからだと思うぜ。ほら、あーん」

 じきに旬になりだすチェリーや桃といった季節のフルーツをふんだんに使ったタルトを口にしながら、シエルはアルデンティーを楽しむ。ティーポットから漂う匂いに、なんとなく懐かしさを感じる。今飲んでいる茶葉はダリム領の西北にあるアルデン山岳のふもとで生産されているもので、さっぱりした飲み口と渋みが特徴的だ。一番茶ともなるとなかなかに値が張ってくるもので、これを取り揃えている店は首都であってもそうはお目にかかれない。
 見た目も色とりどりで楽しいフルーツタルトや、甘さが尾を引くクリーム菓子などと一緒に口にするのがオススメだろうか。最後のタルトに手をつけたナハトは、それをシエルに食べさせようとしている。その手を掴み、逆に食すように目線で促すと、意外にも彼は一口だけ味わうのだった。

「ん……ここのタルトなら俺も食えそう。覚えておくか」
「それで? ナハト様、私に付き合って欲しいことって何かしら」
「ミッテ宝石店に付き合って欲しいんだ。カエラの婆さんがどうしてもお前がいいって言うもんでさ」

 合流したナハトと一緒に紅茶を楽しんでいると、ミッテ宝石店の広告を見せられた。一点物の装飾品も素晴らしいが、宝石を飾る台座や装飾の主張が控えめというべきなのか、ゴッテリしていなくて好きだ。そろそろ新作が出てもおかしくない頃合いか。そんなことを思い出していると、先ほどの彼の言葉と意図が見えてきた気がする。宝石店の老主人はジュエリーに合わせたドレスの採寸や試着のモデルが欲しいのだろう。

「恥ずかしいから二度目は……」
「婆さんの喜ぶ顔には変えられねーだろ。……俺も世話になったのは事実だしさ」

 普段は糸の切れた何とやら同然の振る舞いだというのに、こういう時だけ真面目な顔をするのはいかがなものかと思う。シエルは何も言わず「それもそうね」と返すとミッテ宝石店に向かうべく席を立った。ここからあと五分ほどの距離を歩かなければならない。
 大通りへ出て、そこから商店街のある通りへ真っ直ぐ向かう。商店街を抜けて老舗通りへ出ると、右手側に並んでいる三軒目のショーウィンドウがミッテ宝石店だ。

「ごきげんよう。カエラお婆さまはいらっしゃるかしら」
「……! その声はシエル、シエルなのかえ?」
「ええ、私よ……お婆さま。ナハト様を使わずとも、呼んでくださったらいいのに」

 店先にいた老女がこの店を切り盛りしている主人のカエラだ。ぴんと背筋を伸ばして椅子にかけていても、やはり年齢には勝てないのだろう。その両目は明らかに弱り、視界は閉ざされてきているみたいだった。
 シエルが彼女のもとに駆け寄ると、皺だらけの小さな手を握って支えてやる。六十年よりもっと、ずっと働き続けている頑張り屋の手だ。そう思いながら老主人を再び座らせるべく、ナハトに椅子を引かせる。

「あのドレスと首飾りを。早くしておくれ」
「少々お待ちください、ただいまお持ちいたしますね」

 売り子の娘を店の奥へ向かわせると、一着のドレスと首飾りが運ばれてきた。ドレスは黒のサテン生地で金の刺繍が入っており、シンプルな意匠でありながらも豪奢だ。控え目に膨らんだスカートには大胆にも切れ込みがあり、脚線や素肌がそのまま出る作りになっている。首飾りは大粒の柘榴石をあしらったものに金の台座が組まれていて、その台座の周りには曲線が模様を描くように複雑に絡みあっている。見るからに繊細な仕上がりは、まさに職人技と言えるだろう。

「仕立てたはいいものの、このドレスを着こなせる娘はそう見つからなくてのう。……シエルや、どうかばばの願いを叶えておくれ」
「そこにかけてナハト様とお待ちになってて。――着替えてくるわね」
「ああ。婆さんと一緒に待ってるよ、ゆっくり着替えておいで」

 通されるまま試着室へと向かい、いそいそと着替えをはじめたシエル。手早くコルセットを外してスカートを脱ぎ落とす。そして先ほどのドレスを着付けると、姿見の前で立ち姿を確認する。さらりと流したままの髪に櫛を入れ直してもらい簡単にまとめあげた。化粧を整えおえると首飾りを留めてもらう。念入りに再び立ち姿を確認すると深呼吸をしてから店先に出た。

「似合う、かしら……どう? お婆さま、似合う?」
「おお、おお! 礼の仕草ひとつだって理想だとも。ありがとう、シエルや」

 ほんの少し片足を引きながら屈むように膝を軽く折って重心を下げる。スカートの端をつまむと恭しく頭を垂れた。久しぶりのカーテシーに、なんだかむず痒いものを感じる。今こうしてシエルが道楽者で居られるのは、ナハトや資産家たちの協力があってこそだ。それを思えばドレスの試着や、宝石を身につけるくらい造作もないことである。だが、ここまで喜んでもらえると有難さと気恥しさが同時に込み上げてくるものだ。

「クロードの第二夫人は可憐だったが、あまり飾るのが得意でなかったからのう。結局、恥ずかしがって一度も着てくれなんだ」
「そう言うなよ。なんであれ念願が叶ったんだから良かったじゃねーか、婆さん」

 父が娶った二人目の夫人と言われれば母のことで違いないだろう。確かにドレスを着こなすよりも、どちらかと言えば簡素で実用的な衣服のほうが似合いそうな気がすると感じた。肖像画でのイメージしか知らないから何とも言いようがないけれど、自分のような娘を産んだ女性なら平然と馬だって乗りこなしてくれそうであるし……。
 カノンのくせっ毛ぶりは母譲りと言えるかもしれない。髪が短いせいか、どうしてもふわっと毛先が跳ねてしまう。あとは何だろうか、ぱっちりとした目元とか? 改めて探してみれば意外と共通点があるものだ。そんなことをぼんやりと考えながら、少女は老主人との世間話に花を咲かせるのだった。


***



「シエル様。ミッテ宝石店からのお客様です」
「通しておいて。すぐに向かうわ」

 数日が経ったある朝の朝刊を読んだシエルは、大きく取りあげられた内容が信じられなかった。いつもなら流し見るだけだった見出しには、ミッテ宝石店の老主人が亡くなったと書かれていたからだ。死因は老衰で、流行り病でなかったことがせめてもの救いだったかもしれない。彼女は時代の、流行の先端を走り続けた女性と言っても過言ではない。女一代で宝石店をはじめて、念願叶って首都に出店した頃には四十もなかば。生涯独り身で、身寄りらしい身寄りも他に無かったそうだ。
 メイドに呼ばれて重たい気持ちのまま応接間へと急いだ。訪れたのはあの時の売り子で、彼女が手にしていたのは柘榴石をあしらった首飾りだった。シエルの姿を視界に入れると深く頭を下げる。顔を上げてくださらないかしら。確かにそう言ったはずなのに、上手く言葉にならない。それどころか、ぽたりと熱い涙が伝い落ちた。一度垂れ落ちてしまえば、あとはせきを切ったように流れ出てきたではないか。

「こちらをどうか。シエル様へとお届けするよう、カエラより遺言がありましたので」
「……そう……。あんなにお元気そうだったのに、ちっとも気づけなかったわ。これから皆はどうされるの?」
「それが、私たちの身のまわりまで世話がされていて。どこまでも抜かりがなくて、本当に最期まで店に出ていらして……」

 女性は声を詰まらせながら、それでも精一杯の笑顔を見せた。その様子から最期が訪れるその瞬間まで、老主人は老主人だっただろうことが窺えた。きっと、ナハトは知っていたに違いない。近くに老女カエラの命が燃え尽きることを。だから夜中に突然ふらっとやってきて……それなら時間が無いと言っていたのも、なんだか頷ける気がした。

「どうかゆっくりなさっていって。お疲れのせいか少し顔色が悪いわ」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。お恥ずかしながらあまり、眠れなかったもので……」
「部屋を用意させるわね。サラ、彼女をご案内して差し上げて」

 控えていたメイド頭は「かしこまりました」と言葉にすると客室へと案内していく。ふらついた足取りを見るからに、睡眠不足だけでは無さそうだ。シエルは軽食の手配をすると執務室に向かう。正直とても仕事をする気になれないが、少しでも何かをして気を紛らわせたいのが本音である。書類を一枚また一枚と消化していくが、その速度は目に見えて遅い。普段ならとっくに終わっている時間だ。

「――はい、そこまで。いい子は少し休憩しような」
「ナハト……さま……? いつの間に……」
「今日はちゃんと玄関から来たぜ」

 まるで大きな犬が尻尾でも振りながら褒めてくれと言いたげだ。素直に玄関から来たことを褒めるべきか、などと考えているうちに書類を没収されてしまう。シエルは何も言えずされるがままだ。ソファーに座ったナハトの膝を枕にさせられて、あやすように何度も撫でられる。かすかに伝わってくる体温が互いに生きてることを証明している。大丈夫、と謎の安心を感じた。

「心残りは無いほうがいいだろ? あのドレスが誰かに着てもらえるところ、ずっと見てみたかったみてーだからさ」
「……うん」
「人間、いずれは等しく死ぬ。それが他人よりちっと遅いか、早いか――それだけさ。婆さんはよく生きたよ」

 最期まで勤め先とか決めてたみてーだしな。そう呟いた彼はとんでもないと言いたげに身を縮めた。到底真似できない、とも言いたげである。

「なあ、シエル。もしお前が嫁に行くときはさ、お兄ちゃんにエスコートさせてよ。駄目か?」
「どうしたの、唐突ね……? 私は別に構わないけれど、それって一般的には父様のすることよね?」

 投げ返した疑問に答えられることは無かった。喜んだナハトの表情はなにを考えているのか、みるみるうちに脂下がってく。そんな様子にしょうがないと思いながらも、楽しみにしてくれているなら良いかと思うことにした。

「で、目当てのセスには会えたのか?」
「ええ。少し前の夜会で」
「……そうか。それなら良かったぜ」

 先導されるまま話題は移ろってく。セスに会えたこと、昔と変わりないこと。それから気になっていた素材を買い取れたことを伝えると彼はまるで自分のことのように喜んだ。頑張ったな、と珍しく言葉少なに褒めるとシエルの髪をわずかに掬って口づけを落とす。手慣れた様子の仕草が、なんだかお伽噺じみてて恥ずかしいものがある。もぞりと動けばその距離は離れた。

「今日は早く寝ろよ。――約束な」
「分かったわ。なるだけそうするわね」

 静かに差し出されたナハトの小指に自分の小指を絡め、ゆっくりと指切りをする。なにを子供じみたことをとも思うが、これひとつで心配が拭えるのなら安いものだ。それを確認した彼は、まるで見送られるのを避けるかのように部屋を出ていった。


***



 少しだけうとうとと微睡んで、気づけばもうじき夜会の時間が訪れていた。引きこもっていてはメイドたちに心配をかけると思い、シエルは支度をはじめた。少しだけ顔を出すぶんには大丈夫だろうと踏んでのことだ。馬車から降りると懐中時計を見せる。今日も滞りなく会場へ通された様子に、朝の報せが嘘のようだ。そこで話題になっていたのは亡くなった老女・カエラのことで、淑女たちからも広く愛されるセンスの持ち主だったのだと知る。

「ここは貴方のような小さな子には早い場所よ。お付きの方はどうしたの?」
「あ……ええと。その、ごめんなさい。ぼく、はぐれてしまったみたいで……うう」

 何気なくかけた声にしゅんと縮こまったのは、やっと十五歳になったくらいの少年だった。中性的な面差しのせいか、どことなく頼りなさげに感じてしまう。けれども隠しきれない品性や知性のようなものが漂っていて、正直このような場には不釣り合いだ。良くも悪くも目立っていて、だからシエルは声をかけたのだけれど。そのへんの淑女に捕まるよりは、まだ優しいだろうなどとは自負が過ぎるだろうか。

「これだけ人が集まるのも稀だもの、慣れないなら仕方がないわね。……ほら、行きましょ」
「あ……はい……」

 少年の腕を取り、ひとまず近くのバルコニーへ出た。根掘り葉掘りするでもなく、ささやかな会話を楽しむ。まだ年若いというのに博学で、かと言ってそれをひけらかすこともない。適度に夜風にあたると、今度は比較的に安全な会場の外へ出る。すると彼の付き人だろうか、初老の執事が慌てて駆け寄ってきたではないか。

「ごめんなさい、シエル。迎えがきてしまいました」
「気にしないで。今度ははぐれたら駄目よ」
「……気をつけます」

 もう少しだけ話していたかったが、次の約束は取りつけなかった。彼はまだ子供だ、大人の付き合いをするには少し早い。それを考えれば妥当だろうと思う。手を振って見送ると、その日はシエルも帰路につくことにした。

「シエル様、お帰りなさい。今日はお早いお戻りでしたね」
「アインツ。ええ、ただいま……まだ起きていたの? きちんと寝ないと大きくなれないわよ」

 出迎えてくれたのは小間使いの少年で、数冊の本を手に二階から下りてきたところだったようだった。これから片付けに行くところなのだろうか。それに関して訊ねるとアインツは「はい、そうです」と答えて執務室のドアを開けてくれた。
 部屋に入りかけたシエルは思い出したかのように抱えられた本を取り「私が戻しておくわね」と言ってドアを閉めた。彼が読んでいたのは読み書きの本と、簡単な魔術を記した本だ。どちらも子供が読むような内容だが、懐かしくなったシエルは夢中になって読みふけった。

「やっぱり名前くらい訊ねておけば良かったかしら……」

 気づけばとうに日付が変わっていて、本を閉じて片付けた少女は大慌てでベッドにもぐり込んだ。小さく呟いてはごろんと寝返りをうつ。思い出したのは夜会で出会った少年のことだった。もう会うことも無いだろうし、それを考えると訊かなくて正解なのだが、なんだか引っかかる。あそこまで純粋に深い知識のやり取りは滅多にできない。それを思うと、なんだか非常に惜しいことをした気がするのだ。連日と夜会に顔を出してみたが、あの夜の彼を見つけることは無かった。
 近衛の衛士を捕まえて訊ねてみたけれど、誰に訊ねても子供の姿は見なかったと言う。こうまで手がかりが掴めないと、まるで出会ったこと自体が夢か何かのように感じてしまう。少年を探すのを諦めたシエルは早々と会場をあとにすれば、屋敷に帰ってくるなり生家の書斎から運んできてそのままにしておいた本を読みはじめる。

「サラさん。シエル様、なんだかまた難しいご本を読んでらっしゃいますね」
「珍しいですね。あまり勉学は好まれないのに……どうされたのでしょうか」

 メイドと小間使いは揃って不思議そうに首を傾げた。ここのところの女主人は、難解な理論書を読んでいるか、見慣れない魔術を試しているかのどちらかだ。
 あれから一週間ほどが経った社交界。今日も贅沢な食事が並び、どこからともなく自身の所有する貴隷の自慢がはじまる。調教師の少女が久しぶりに顔を見せると、そこにはあの時の少年がいたではないか。

「……あ! シエル。どうしても会いたくて今夜は無理を言ってきました、その……ごめんなさい」
「わざわざお付きの方と来てくれたの? ありがとう。少し風にあたりましょ」

 夜風にあたろうとしてバルコニーに出てみたが、今夜は少しばかり熱気がある気がする。そこで話題になったのはアドラーの定理と、父が打ち立てた魔術理論についてだった。簡単に実践しながら話してみるのだが、やはり彼の知識には驚かされる。一般的な教養として普及しているものから、魔術師であってもなかなか注目しないことまで幅広く知っている。まるで少年王みたい、と呟くと彼は一瞬だけ驚いた表情を見せた。知識の深さならきっと、彼はこの国の王とだって対等に渡り合えそうな気がするのだ。

「…………。ぼくが、その少年王だとしたら……シエル、貴女はどうしますか」
「どうって……。少なくとも、私にとっては何も変わらないわね。たとえ王様と言われていても読書が好きな男の子に変わりがなくて、なんだか安心したくらいよ」
「周りのみなが、貴女みたいなひとだったら良いのに」
「それは難しい話しよ。復権の話しも嬉しかったけれど、私に決定権は無いの。……ごめんなさい」

 国の王から直接に打診されるなど名誉なことだと理解している。けれども、シエル自身に一切の決定権が無いのは事実だ。それは家督の座がカノンに移っても同じことだろうと思うし、むしろそうなったら他家へ嫁ぐどころか、徹底的に領地へ封じられそうな気がする。
 選択肢が増えれば増えるほど、日頃から感じている以上に今の生活が気に入っていることに気づく。本当なら復権するべきなのだろうが、そうなると余計に面倒なことになりかねないと言うべきか……。第一に古株たちが内心でいい顔をしないだろうと思ってしまう。

「……あ……。ぼく、もう行かないと……」
「楽しい時間って本当にあっという間なのね。途中まで送るわ」

 また迷子になったら困るでしょう? などとそれらしく続けると、彼は嬉しそうに、でもどこか寂しそうに微笑んだ。会場を出れば少年を乗せた馬車が出ていくまで見送る。それが済む別の馬車を捕まえて、屋敷へと向かうのだった。

「……ただいま」
「お帰りなさいませ。なんだか表情がお暗いですが……あ、シエル様! 行ってしまいましたか」

 出迎えてくれたメイドを振りきると、一人になれる部屋でシエルは膝を抱えた。あんな年若い子供に国を任せるより他がないなどと、なんと残酷なのだろう。それが王族の血筋に課せられた務めだとしてもである。いくら自分に決定権が無いと言っても、結局のところ考えたのは保身だ。肝心な時に嘘のひとつでも並べることができない――そんな自分が許せなかった。あの小さな肩に並ぶこともなく、ただ、何も変わらないと言ってやることしかできなかった。

「政治なんて、どう考えても私には向かないし……。適材適所よね……これも」

 言い聞かせみるが、心の底にどろりとした何かが溜まってく。復権だなんていまさらだ。そんなことなら、どうして姉はあの時に権利のすべてを手放したと言うのだ。年月とともに情勢が変わっていくのは分かる。だが、治世者が欲しいのは父が遺した魔術理論だ。あれが正しく機能すれば、魔術に対しては手堅い守りを得ることができるだろうし――考えれば考えるほど、復権を断るのが妥当だと考え至ってしまう。

「……もう寝ましょ」

 家がどうであれ、今となってはこの屋敷を守るだけで精一杯なのだ。そんな自分に伯爵の地位を名乗るなど分不相応である。感情だけではどうにもならない、どうにもできないのだから。いい方向に物事を考えることができない。思考を切り上げるとシエルはベッドに身を投げた。ぼすんっと重みで沈んで、そのまま意識が持ちあがることは無かった。



「申し訳ございません――様。シエル様はまだ」
「問題ない。急に訪ねるのも気が引けたが、少し……なものでな」

 屋敷がバタバタと慌ただしい。もうそんな時間か、と思いながらも身体は思うように動いてくれなかった。頭がやけに重たく、まるで熱でもあるみたいだ。声を出したが小さな唸りにしかならず、ぼうっとした思考でなんとか考えようとする。規則正しくノックされるドアに、ふらふらと立ち上がったシエルはどうにかこうにかメイドたちを招き入れた。その瞬間、安心したのかぽてっと力なく倒れ込んでしまう。

「大丈夫か? いや……何も言うな、聞いていればそれで構わない」

 目線だけで姿を追う。カーテンを閉めた彼はベッドの傍に置かれた椅子に落ちついていた。大きな手が何度か髪を梳って静かに離れていく。本当なら身を起こすべきと分かっているが、例にもよって下着姿なのだ。とてもお見せできない。じぃっと目線だけで訴えると、何も言うなと釘を刺された。

「ヴァンベルグ家に復権の話しが出ているんだ。決めるのはお前たちだが、僕はあまり気乗りしない」
「……ん……」
「先代の影を重ねるのも分かる。だが、いい加減に自由になっても良いと思ってる」

 だから早く忘れろ――そう言った彼は重苦しそうに息を吐く。眉間に少しだけ皺が寄るのが本当に残念だ。腕だけ動かして、寄せられた眉間をさする。しばらく繰り返していると、なんだか涙があふれてきた。自分本位の行為なのに、それが当たり前のように受け入れてもらえるのが嬉しくて。ぎょっとした彼は「どこか痛むのか? 誰か呼ぶか?」などと大慌てだ。

「ここのところ少し、感情のやり場がなくて。思っていたよりもずっといっぱいだったみたい」
「そうか。もう落ち着いたのか?」
「大丈夫……だと思う」
「お前のそれは僕からすればアテにならないぞ。ほら、ゆっくり休め」

 うん、と絞り出したつもりだったが言葉になっていなかったようだ。重たくなった瞼を閉じると、溜まった疲れを消化するように再び眠りにつく。すぅすぅと小さな寝息が聞こえはじめると、青年は安堵したように席を立った。彼女が復権の話しをどこで聞いたのかは分からないが、政治を任されている老人たちの考えなど透けている。遺された魔術理論が欲しいだけだ。彼らが常日頃から腹の内で考えているのは、いつだって身を守るすべと何がしかの利益だけ――そこに大義もなにもありはしないのだから。

「おやすみ、シエル」

 小さく声をかけて、音をたてないように唇を寄せる。だが、それは少女に触れることなく寸前のところで離れていった。六年の年月でできた、この言葉にならない距離がもどかしい。たとえもどかしくとも、触れるわけにはいかないのだ。彼女がどう思っていようと、勝手を許される立場では無いのだから。あの頃みたいに――。ふとそう思った男であったが、いまさらだと乾いた笑みを浮かべた。
 今から十年近くも昔に、ヴァンベルグ家は貴族としてのすべてを手放した。それが再び取り沙汰されるなど、どういう了見なのだろう? 正確な狙いが分からない以上やたらと動くわけにもいかず、まるで苦虫を噛んだような気持ちになった。