「はあ……やはり気が重いな」
定刻になりセスが向かったのは冷えた空気の流れる軍部の地下、牢が左右に連なって広がる通路の先だった。石造りの床を踏むたび、カツと硬い靴音が響く。牢屋に入れられた魔術師たちは無力化されていることもあり、青年が歩を進めるたびに独房で身を縮めてはひとりガタガタと震える。犯罪者とはいえ生身の人間だ。次に処断されるのは自分だろうか、と言いようのない不安や恐怖に駆られるのだろう。そんなことなら最初から法を破らなければ良いのではないかと思うのだが。
行きついた先に見えたのは錆びついた鉄の扉。ギィッとそれを開ければ、そこには旧時代的な拷問室が広がっていた。ランタンひとつが光源の薄暗い室内にはずらりと拷問器具が並び、壁には黒く酸化した血痕が無数に散っている。それをひとしきり眺めていたカイン伯爵は歪な笑みを口端に浮かべ「座りたまえ」と古びた木製の椅子を勧めた。
「今日は少しばかり趣向を変えようと思ってな。どうだ、懐かしい香だと思わないかね」
促されるまま椅子に座ると、セスは後ろ手に拘束される。なぜならこの拷問部屋も他の牢屋と同じように、対魔術師用の特殊な仕掛けが施されているからだ。室内では疑似的に一切の魔術が扱えなくなるのだという。そんな空間に身柄を拘束されつづけたら、日頃から元素や触媒の恩恵を受けている人間ならば耐えられないだろう。反抗されるのを警戒してのことだろうが、ただの壮年と化したカイン伯爵には、簡単な尋問とはいえ精神的な余裕や保険が欲しいのだと窺えた。
「この匂いは……しまっ――」
音もなく鼻先にぶら下げられたのは、手のひらに収まる程度の大きさの香炉だった。そこから漂うのは少しばかり粉っぽい、それでいてほんのりと甘みのある独特の香り。その香りには確かな覚えがあり、懐かしさと同時に胸の奥が締めつけられるような気がした。つい声をあげてしまい、セスは思いきり吸い込んでしまう。
そんな有り様を哄笑したカイン伯爵は匂いを漂わせるよう、眼前で振り子のように香炉を揺らした。嗅覚が麻痺してきた頃合いになると、今度はじわりと額に汗が滲んでくる。媚情を催す蠱惑香と麻痺香に、雪中草の花蜜でも練り込んだ特注品なのだろうか。雪中草の香りは好きだが、だからと言って男に用意されても嬉しくない組み合わせだ。
「婦人にこれは厳しいだろうが、貴様に遠慮は要るまい。私の胎は何処だね、答えろ」
「何度も言って、いる……! 僕は、知らない……ッ」
「これだけの目に遭っても吐かないとは実に強情よな。余計な手間が増えるだろう、倅」
麻痺香には少し変わった性質があり、一度嗅ぐと身体に抗体ができるのだ。しかしながら初めて嗅ぐ麻痺香の調合比率に、とうとうセスは身動きひとつ満足に取れなくなる。それでいて欲求だけを刺激され続けるというのは苦しい以外に喩えようがない。
だらだらと汗を垂らしながら必死に乱れる呼吸を殺す。息子から返ってきた変わりばえのない答えに、深く溜め息を洩らしたカイン伯爵は、器具から飛び出た杭に香炉をぶら下げてそれきり姿を消した。その会話を最後に耐えつづけること三十分ほどが経過しただろうか。ようやく麻痺香の成分が抜けだして、少しずつだが身体に感覚が戻ってくる。まるでそれを見計らったかのように、ほんの少しだけ開けられる拷問部屋のドア。
外から入ってくる新鮮な空気のおかげで、わずかばかり呼吸が楽になる。部屋を満たしていた匂いが薄くなり、それが無くなったタイミングを見て一人の青年司書が近寄ってくる。彼は慣れた手つきで拘束具を外すと、置かれたランタンの残り火でセスの顔色を見ようとしてその表情を照らす。
「……つっ! 悪趣味だぞ、兄さん」
「そう言うなよ、ちゃんと助けにきただろ。これ、お兄ちゃんが飲ませてやろうか?」
悪態をつかれてもなおニヤニヤと軽薄そうに笑うのは兄のナハトだ。臨時枠の司書として勤めている彼が先約の相手になる。日頃の派手な装いでないせいか誰に気づかれることなく勤めているようだった。面倒くさそうにベレー帽を脱いだ髪がふわりと軽く揺れ、度の入っていないメガネから紅と翠の異なる瞳が覗く。
思い出したように差し出されたのは解毒剤の詰まった小瓶。渡そうとしておきながらも、セスが手にしようとする寸前で意地悪く引っ込める。そうやってこちらの反応で遊ぶ様子に安堵を覚えながらも、なかなか薬を渡さないことに怒りを込めてその脛を蹴った。大袈裟に痛がる兄から薬を調達すると拘束から自由になった手で小さな瓶の中身を飲み干す。
「しかし相変わらずだな、クソ親父も。あの子をなんだと思ってやがるんだ」
「……兄さん、ひとつ訊いても良いか。知っているなら教えてくれ、彼女の行方を」
今から六年近くも前、忽然とクロイツ家から姿を消したシエルという少女がいる。父であるカイン伯爵と旧知で同門だった男・クロード=ヴァンベルグ伯爵の忘れ形見のひとつだ。アドラーの再来とまで言われた天才の血を引く彼女は、魔術王の遺産とまで称されるほどである。実際その直系なのだし間違いではないのだろうが、父が少女に執心する理由はきっとそれだけでは無いと思っている。
あの当時、あらゆる手段を使って行方を捜したが、結局シエルは見つからないままだ。なにかと可愛がっていた兄ならもしや、と冷静になって思い至る。いつも上手くはぐらかされていた気がするが、今ならあっさりと教えてくれそうな気がする。――そんな、直感にも等しい感覚。
「今さら知ってどうするんだよ。あの頃には戻れないんだぜ」
「それでもだ」
引き合いに出されても仕方のない綺麗な過去。それに戻りたい訳でもないことくらい、彼だって分かっているだろうに。今まで散々はぐらかしておいてとも思うが、兄には兄なりに一応の考えがあってのことだろうと思いたいところである。セスが引かないでいると、ナハトは折れたようだった。
彼の懐から出されたのは一枚の令状。そこには宮廷で行われる夜会警護の任が記してあった。最低でも一人は司書を同伴させること。それが条件だった。魔術の才能が薄い者の集まりが近衛隊だ。宮廷に赴くのであれば司書の同伴を求められるのも頷ける。しかしどういう理由か、同伴者としてすでにナハトの名前が記名されているではないか。それについて問おうとすれば兄は恥ずかしそうにぼそりとこぼす。
「俺さ、宮廷にだけは行ったことねーんだよ。滅多にチャンスも無いしさ、後学には変えられねぇじゃん?」
「もっともらしいことを言うが、ほどほどにしてくれよ。後始末をするのは僕なんだからな」
はあと小さく息を洩らすも、内心では心強く思っているなどと極秘事項だ。そんな弟の様子が納得いかないのか、ナハトは「俺だってやれば出来るもんな!」と喚いて謎の対抗意識を剥き出しにする。大人げない兄の相手もそこそこに肌寒かった地下を抜けると、今度は暖かいのを過ぎて暑いくらいの地上に出る。彼女へと続く唯一の手がかり。それを見つけたのは、春先も終わろうとしていた日の夕刻であった。
路肩に停まっていた馬車に乗り、青年はひとり帰路につく。
ふと見やった視線の先、左手の薬指にはくすんだシルバーリングがある。これが今更になって枷になるなんて。いいや、これがあっても無くても結果は同じか。そう思えば、いくらか心は慰められるものだ。
形だけの所帯を持って数年、まるで形骸のように月日は流れていった。妻になった女の狙いはクロイツ家の持つ権威――それだけだ。彼女の戯れで求められたこともあったが、その時ばかりは「その手合いの趣味が」と嘘を口にしたのだ。絶倫が過ぎて妻に逃げられたやら、実は男色の趣味があるだとか。それは滅多に社交界に顔を出さない男を揶揄って流れた噂に過ぎなかったが、本人が言葉にしたことで図らずとも何かを確信させたようだった。食事を一緒に摂った覚えがない。そんな風に冷えきった屋敷であっても、きちんと帰るのには理由があった。
「ただいま、シェリー」
「お帰りなさい、お兄様。なんだか今日は嬉しそう、良いことでもあったの?」
馬車を降りて静かに門扉をくぐるとランタンのともし火を確認する。その位置が間違いないことを確認してから、人の気配がない廊下を進み、たどりついた部屋の扉をノックした。部屋から出てきた少女は男を視界に収めると、嬉しそうに破顔して抱きつく。それを受け留めたセスは「ああ」と短く返しては彼女を抱えあげ、そっとベッドに下ろしてやる。
「……まったく。先に休んでいろと、あれほど言ってるじゃないか。シェリー」
「い・や! わたしだってお兄様に会いたいもの」
薄手の毛布もじきに暑くなる季節が近づいてきた。それを掛けてやりながら、枕に伸び広がる髪を撫でて梳る。見慣れた仕草であっても嬉しそうにしていたシェリーだったが、兄の要求は飲みたくないのかぷくりと膨れつらになった。まだまだ甘えたい年頃なのか。そう思えば、記憶の底にある綺麗な少女とダブって重なる。なぜなら彼女も青年をそのように呼んで慕っていたからだ。
慕っていた。そういえば聞こえはいいが、実際はどうだったのだろう。あの時の答えもいまだに――いいや、帰郷したさいに約束の場所に来なかったのだから、それが何よりの答えじゃないか。なにを今更になって期待するような真似をして傷を広げているのだろう。
「おやすみ、シェリー」
「ええ。おやすみなさい、お兄様」
閉じられた瞼に彼はそっと口づけを落とす。そうして彼女が寝つくまでソファーに腰を落ちつけて過ごす。それが二年前から続く生活の基盤になったのだ。それはどうしてだっけ? ふと思い返してみて、仕事で三日ほど屋敷に帰らなかった時のことを思い出した。帰ってきた家主の男を出迎えたシェリーは、はっきりと目元にクマを作っていた。食事もろくに喉を通らなかったようで散々だったと、メイドにこっぴどく叱られた。それからは可能な限り帰宅するようになったのだった。
そのまま彼の意識は沈んでいく。深く、暗い、底のさらに奥底へと――。
たどりついた夢のなかで、ゆっくりと瞼を開ける。そこには見慣れた父の書斎があって、でもその視線は腰より低く這いつくばるよう。拘束魔術で捻りあげられた腕は満足に動かず、姿勢さえも固定されてしまう。滑稽なまでに無様だ。そう、何度目かの苦虫を噛み砕いたところで、眼前で惜しげもなく開かれている少女の裸体が震える。
間違いなく、六年前のあの時だと嫌でも理解する。抗っても、どれだけ声を枯らしても覆らない情景。彼女は、シエルは、あの男の手によって散らされるのだ。父親のように慕う男の手によって。熟達した性技に、少女が苦痛を訴えることは無かった。それがせめてもの救いだったのかもしれない。熟したばかりの胎にこれでもかと残されて。先を越されたことよりも、あらゆる手を尽くしたのに守りきれなかったことのほうが辛かった。
でも――乱れて蕩けていくシエルの表情は、今まで見たどの女のそれより淫らで美しいと感じた。そう思った時点で、自分も目の前の男と同罪な気がした。頬にべったりと塗りたくられたのは少女の愛蜜。その生暖かさが、いまだに記憶からも拭えない。声を絞ろうとして開けた口にねじ込まれた指先から感じたのは、真雪に埋もれて咲く野草の蜜と似たような味がした。
自分と父は元より、彼女と自分。お互いのあいだに一線を引いたのは、その一件が引き金になったのは明白だった。シエルと出会って数年、最初はナハトに巻き込まれる形だったが、自分なりに思い描いていた計画があった。お互いの距離が明確になることで、改めて実行できるチャンスだとも思った。
そうして訪れた、四度目の冬。
あれこれと言葉を考えながら、シエルが好きな教会のステンドグラスを眺めていた。約束の時間まで待っていたが、彼女は来なかった。それが何よりの答えだと思った。だから意固地になって身を固めることを良しとしたのだ。了承のサインなど到底出るはずもなく、それでいて屋敷では共同の生活を送ることとなった。
じきに三年戦争がはじまって、その時はアドラー二世が前線に立って指揮を執った。本部に残った彼は、近衛たちを率いて首都の守りを固めたのだ。シェリーを拾ったのは厳戒態勢のルブルムを警邏していた時だった。気に掛ける対象があれば、何かが変わる気がして必死だったのだろう。引き取ることに対して躍起になった記憶が真新しい。
「……ん。……朝、か……」
ゆっくりと開け放たれたカーテンから柔らかな陽射しが差し込む。それが朝を告げたものであることは、部屋の中を飛びまわる生き物が囀ずることで証明している。もぞりと寝返りをうてば、昨晩シェリーに掛けてやったはずの毛布がずり落ちてきた。どうやら、あのまま寝落ちてしまっていたらしい。
忙しなく飛びまわる生き物を小鳥だと認識したセスは、ぼーっとしながら目線で追う。チィチィと小さく鳴きながら飼い主の指先に止まり、ちょんちょんっと跳ねては自分から鳥かごの中へと入ってく。それを確認すると、ゆっくり下される格子戸。
「紐、留めてくださる? お兄様」
「あ……ああ。構わないぞ」
シェリーはコルセットの紐を結びかけて、思い出したかのように兄の表情を覗く。何気ないそんな仕草が起き抜けたばかりの理性をざらりと削った。そうして自分を試しているのか? そのように訊ねれば否であろう。なら、やっぱり単純に甘えたいだけなのか。そう結論づけると、黙ってコルセットの紐を留めてやる自分がいる。上手く誘導されているような気がするが、なんだかそれも悪くないなどと思ってしまう。
「お兄様。お兄様はこの国で一番お若い調教師様ってご存知?」
「それは僕の管轄では無いから詳しいわけでは……。なんだ、興味があるのか?」
「ええ、とても! 楽しいお話しが伺えそうだもの」
ぱぁっと瞳を輝かせた少女の無邪気さは罪だ。楽しいか有益かは置いておいて、そんな表情をされたら会わせてやりたくなるものである。どんな理由をつけて調教師の身柄を確保すべきか。そもそも子供の相手をさせるために喚べるものなのだろうか? 妹の喜ぶ姿を想像してみて表情を緩めるも、青年の疑問は朝から尽きなかった。