第一章 将校様と夜会の花
穏やかな日に限って時間が経つのは早く、気づけば夕暮れが迫っていた。
ぱちりと目を覚ました少女は、豪奢な天蓋つきのベッドから身を起こす。鏡に映った自身の姿はシュミーズ一枚にショーツだけ――と、簡素でいてやけに扇情的な寝姿だった。欠伸を噛みながらクロゼットを開け放ち、慣れた仕草で今夜のドレスを選びだす作業。深紅と漆黒が折り重なってベルラインのシルエットを形作る。短いスカートの広がりにパニエで膨らみをもたせた意匠のドレスを引っ張り出すと、あっという間に着つけてしまう。
それから部屋にある鏡台に落ち着けば、何よりも先に髪を梳る。櫛を入れながら丁寧に整えて、サテン地のリボンにレースと金細工が散りばめられた髪飾りでワンポイントに留めた。化粧を整えなおし、お気に入りの香水を纏えば出かける準備は整ったようなものだ。
「もう出られるのですか? シエル様」
「ええ。留守をお願いね、皆」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
今日の夜会は宮廷の第四会場で行われるとのことだった。ロイス聖王国からの来賓も見える趣向に、今夜こそ何かがあるような気がしてならない。過度な期待は禁物だが、それでも心がざわめくのは事実だ。公認の調教師である身分を示す懐中時計を見せれば、シエルは滞りなく会場へと案内されていく。天井を見れば豪奢なシャンデリアが垂れ下がり、この会場内を明るく照らす。石柱には繊細な彫刻が隙間なく施され、蝋燭には宮廷魔術師によって魔術の炎が灯されていた。
今夜も弦楽団が緩やかな音楽を奏でて、これでもかと贅を尽くした料理が振る舞われる。それを口にしては貴族たちが何かを自慢しあっていた。彼らが話題に挙げているのは所有している奴隷階級の人間――言うまでもなく貴隷についてだろう。貴隷とは貴族たちが所有する性玩具とでも呼ぶべき特別な奴隷だ。一般的な奴隷と著しく異なるのは、貴隷となった以上は相応に着飾ることを許され、ある程度の社会的地位と、破格な金銭収入が約束されている点だろうか。所有者である主人の格を示すためなら、文字通り『どんな奉仕』でもするのだという。志願しなければなれない特異な奴隷階級でもある。
この社交場でも夕刻から夜までを夜会と呼び、それより二刻ほどが経過すると蜜会と呼ばれるようになる。夜会は主に立食式のパーティになっており、貴隷との性交は許されていない。しかし、蜜会ともなると所有者の許しさえあれば姦通すら許される狂気の宴と化す。本来であればこのような催しを連日開けるほど、国の財政に余裕など無い。だが、この嫌味ともとれるほどの絢爛さは、両国双方とも心地よく外交を進めたいがための演出でしかないと感じてしまうのだ。
「おお、シエル殿のあのくびれた腰つき」
「美しい脚のライン、堪りませんなあ」
帝国の首都ルブルム。煌びやかな宮廷社交界で噂の貴隷調教師と言えば、まだ齢十八と年若い少女・シエル=ヴァンベルグのことだろうか。アドラーの再来とまで呼ばれた父を持つ彼女が首都の社交界、しかも夜会に現れた時には場が騒然となった。あの天才魔術師の血をひく胎なのだ、さぞかし魔術師としても母体としても申し分ないだろう――と。静かに歩を進めるシエルの姿に、そこに居合わせた紳士たちは目を向ける。この国の男であれば誰もが欲するだろう胎には、すでに子が宿っているかもしれないからだ。
故ヴァンベルグ伯爵の三人の子たち。彼女たちの後見人をつとめた家柄に、伯爵家の一角であるクロイツ家の名前が挙がる。そこの家督である壮年の紳士が、熱心に求婚していたのも事実であり、誰もがそこに嫁いだのだろうと疑わなかった。だが、実際にはどこにも嫁いでおらず、ましてや胎に子などもいない。周囲は彼女の思惑どおり面白いくらい勝手にそう思い込んだ。
この国に居る以上、どうせあの男からは逃げられない。だからと言って最初から足掻かないのは、何かが違って。たとえ往生際が悪かろうとも、できうる限りは足掻いてみせると心に決めたのだった。
「シエル殿。こちらをどうか」
「あら、ありがとう。おじ様」
調教師の少女へと挨拶代わりに差し出されるグラス。中を満たすワインを口にするたび、こくっと細い喉が鳴った。シエルが歩を進めるたび忙しなく動く脚線の美しさに紳士たちの視線は釘づけになる。これで貴婦人だと言うのだから扱いに困る。そんな心中を察してのことだろう彼女が浮かべる笑みはどこか悪戯めいていた。
道楽。貴族たちのそれと言えば、やはり奴隷階級の人間を飼うことだろうか。犬や猫といった動物よりずっと賢く、ちょっとやそっとでは死なない耐久性。あらゆる利便性を追求した結果だろう、人買いにより闇雲に子供をさらう事件が増えてきている。そのように姉が嘆いていたのを思い出す。
「……ずいぶんと珍しいのね。今夜は来て正解だったわ」
そんなことを思い出していると、いつもより少し会場が賑わっていることに気づく。何気なく視線を移ろわせていれば、それは緩やかに一点へと固定される。夜会では見慣れない、年若い近衛の姿がそこにあったからだ。
短く揃えられた鳶色の髪を撫でつけ、鋭い目元の枠内を満たすのは翡翠の瞳。神経質そうに寄せられた眉間が少しだけ残念な気がするが、それであっても美男であることには変わりがない。体格も逞しく骨太で、四つん這いにさせてその広い背中を椅子にするのが丁度よさそうである。
「シエルよ。ええと」
「……セスで良い」
「分かったわ。セス様」
ふと、示し合わせたように互いを認識する。周囲の人波はたちまち引いていき、ぽつんと二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。青年に続きを促すよう、シエルは言葉を切る。わざとらしいと分かっていても、最適解はこれだろうと思う。少女の意図を汲み取ったのだろうか、セスと名乗った男は淡々と口を開いた。
敬称は不要だと言いたかったのかは定かでないが、懐中時計を見ていた視線が真っすぐにシエルを見据え、それでいて不快感をあらわにした。そうは言っても彼が帝国の軍人で、将校なのは火を見るよりも明らかだ。濃紺の燕尾のようなシルエットに、ところどころ施された金の装飾が豪華さを表している。少佐の階級章が胸元に慎ましく座していた。
「あの頃は尉官だったのに。……驚いたわ」
「そう言うお前こそ、調教師などと道楽をはじめていたとはな」
「似合わない?」
「さあな」
互いに家名を出さないのが最低限の関わりでいい。そのように言いたげで、六年越しの再会はひどく乾いていて、かすかに軋みを伴ったものだった。あれこれと考え込むシエルをよそに、彼はワイングラスに手を伸ばす。その所作は手慣れているが、決して軟派なようには見えない。相変わらず生真面目な堅物気質なのだと窺えた。
ひとまず思考を落ち着けると互いの近況を探りあう。その手元を見れば、くすんだ銀の指輪に目がいった。どこぞの娘と身を固めざるをえない立場で、彼はどんな心持ちで受け入れたのだろう。そもそも、本当に心から承服できるような相手だったのかも謎であるが。
「馬鹿馬鹿しい。こんなの不貞の合法化じゃないか」
「たとえそうであっても需要があるから成り立つ制度よ。そもそも貴隷には志願しなければなれないのだしね。これだって立派な取り引きよ」
この会場のどこかで、ぴしゃんぴしゃんとスパンキングが始まった。なめした革で編まれた一本の鞭がしなって容赦なく素肌へと振るわれる。主人から理不尽な叱責を受けてもなお、貴隷は悦んで失禁してみせなければならない。その様子を誰もがせせら笑うが、シエルは元よりセスも微動だにしなかった。
「そこまでいくと詭弁だな」
「ふふ。貴方のことだもの、言うと思ったわ」
フンと鼻を鳴らしてそらされる視線。それはなんだか機嫌を損ねた子供のように感じなくもない。男の様子にくすりと小さく笑ったシエルは、無邪気に腕を引いて夜会を見てまわる。近衛である彼の職務は、来賓があることを考えてもこの会場の警護だろう。
それを考えたら、場に詳しい好事家のひとりは連れておくべきだと思うのだ。絢爛な会場を離れて、どことなく暗鬱とした区画に足を踏み入れた。ここでは素材である子供が売り買いされている。見るに堪えないほど劣悪な環境も、職務とは別に知っておいて損はないだろう。早速と言っていいほど聞こえてきた罵声に足を止めた。
「本当に気味が悪い! お前のせいで商売上がったりじゃないか!」
なかば八つ当たりのように暴言を吐きながら、中年の奴隷商人は足元で震える小さな存在に目がけて拳を握る。それが子供を狙ったものであると分かれば、セスは無言で止めに入った。脂ぎって肥えた男の下で震えていたのは、自身の商品である子供だ。年齢は十二くらいだろうか、粗末な麻のシャツ一枚を着ているだけで、不健康に痩せ細った手足が身体を支えている。シエルはその片目を隠すように伸びた前髪が不自然で、以前からずっと気になっていたのだ。
「……っ! お止めください……っ」
この子供、ひょっとしたら。前々から見かけていたが、確認するいい機会かもしれない。意を決した調教師の少女は静かに歩み寄り、そっと子供の前髪をどけてやる。拒絶の言葉を紡ぐ声は可愛らしい顔立ちに反して熟していた。しかし、その意思表示とは裏腹に怯えているのが見て取れる。それでも調教師である以上、正確には魔術師の端くれである以上は確かめなければならないのだ。この少年が隠している片目を。
不自然に伸びた前髪をどければ、瞳の色は左右で異なった。オッドアイと呼ばれる単純な身体的特徴。そしてもしかしたら、悪魔憑きなどと呼ばれては迫害され、忌避される存在かもしれないからだ。出自も不詳なことが多い彼ら悪魔憑きだが、魔術師としての才能に非常に富んでいる。かの魔術王でありレムギアの建国者クロウ=アドラーもそのように伝承されているし、肖像画で見た限りでは自分の父親もそうだったようだ。
「ねえ、おじ様。この素材はおいくらかしら」
「おいおい、お嬢ちゃん。ここは遊び場じゃ……」
言いかけた中年の言葉はそこで止まる。何故なら大人ひとりが一ヶ月は楽に遊んで暮らせる金を、簡単に、躊躇らうことなく渡されたからだ。黙った理由はそれだけではなく、追い討ちをかけるよう青年将校から商品へのずさんさを指摘されたからだろう。管理局へと報告する旨をチラつかされ、店主は観念した様子で身柄を引き渡した。
「貴方、名前は」
「俺に名前、なんて……」
「……そう。今日からアインツと、そのように名乗りなさい」
助けた少年はそれきり俯いた。彼のように名前のない奴隷というのも珍しくはない。親が奴隷階級の人間で、それこそ真っ当な扱いを受けてこなかったのだろう。売り買いされている奴隷の扱いは買い取ってしまえば主人に一任される。
せっかくだから魔術を教えてやるのも楽しそうだし、それなら小間使いの名目で置くのが妥当だろうか。どうにも女所帯で、これという男手に欠けるのも事実だ。帰ったら適当に食事を摂らせ、まずはその前に風呂と服を用意してやるべきだろうか。土産を手に入れ上機嫌の少女は、物珍しそうに周囲を見るアインツの髪を撫でて梳る。手続きがてらセスに別れを告げると、二人で帰路につくのだった。
「お帰りなさいませ、シエル様。これは小さなお客様でございますね」
「これから一緒に過ごす子よ。サラ、貴女からも色々と教えてあげて」
「かしこまりました。それでしたら湯の準備をして参りますね」
屋敷に帰ったシエルたちを出迎えたのは、メイド頭のサラだった。白いブリムを傾けながら、にこやかな微笑をその童顔に浮かべる。彼女にアインツを預けると、急いで整えてある兄の避難部屋へと向かった。カノンらしく整えられたクロゼットから、一組のシャツとパンツを引っ張り出す。
調教師を名乗るのに公的な文言や資格もある。けれども道楽的な側面で言うならば、資格などはあって無いようなものだ。それも手伝ってだろう、衛生管理や最低限の食事すらままならない貴隷や奴隷というのもいる。先ほど見たような奴隷商からアインツへの扱いを見れば、端的にでも窺い知ることができるだろう。
「し、シエル様! た……助けてくださいっ」
その声に慌てて部屋を出れば、駆け寄ってきたのは全裸のアインツだ。何事かと思っているとその後ろを追ってきたのは彼よりも少し幼いメイドの少女。小さな手には浣腸の容器が握られていて、シエルの周囲をぐるぐると追いかけまわす様子には困ったように微笑んだ。
「アインツ。お腹に虫がいると大変だから、ね? 一回だけ我慢して」
「うぅ……」
貴隷はその役割上、常に身綺麗にしておかなければならない。それこそ排泄から恥毛のひとつに至るまでだ。この屋敷で出す食事には、すべて特殊な薬が混ぜてある。摂取すると腸内が浄化され、やがて恥部さながらに透明な粘液を溢れさせるよう、体質そのものを改善してしまうものだ。かくいうシエル自身もそれを口にしている。
おそらくアインツを貴隷用の素材と勘違いしてのことだろう。あらかじめ説明しなかったのが悪いのだし、とにかく彼にもメイドにも悪いことをしてしまった。理由を話して別の用事を与えてやると、容器を受け取って風呂を済ませることにする。慣れた様子で十指を滑らせて丹念に肌を洗い、専用の排泄口で用をたさせると、少しばかりやつれて見えた。浣腸で強制的に排出させたのだから仕方がないが、どうにもこうにも心が痛む。風呂を済ませれば彼に与える部屋へと向かった。
「今日からここが貴方の部屋よ。必要なものがあったら申し出てちょうだい」
「……俺の、部屋……ですか? 大きくて立派すぎます……」
そこにはチェストやクロゼットといった気持ち程度の調度品しかなく、個人に割り当てるには簡素な部屋だ。だが、彼にとってはそのほうが落ち着く気がした。立派とアインツは言葉にしたが、ここまで控え目でもそのように映るのか。とにもかくにも、使用人として真っ当な扱いを受けることに慣れてもらう必要がありそうだ。
頃合いを見て運ばれてきたのは二人分の軽食。ソファーに落ち着いてそれらを口にすると、これからのことを話しつつ静かな時間を過ごす。まずは簡単な読み書きと、その前に身だしなみを整えてやるのが先決だろうか。シエルはあれこれとプランを考えながらアインツの頭を優しく撫で、その日はベッドに入るよう促した。