第二章 花食みの影




 じんわりと汗ばんだ身体でシエルは飛び起きた。朝にはほど遠い、まだ真夜中の途中である。再び寝入ろうとしたが落ち着かず、コップに一杯だけ水を口にすることにした。井戸端で静かに水を汲みあげ、生ぬるいそれをゆっくりと口にした。
 夢の内容は思い出せないが、まだ心が騒いでいる気がする。むわりとした空気にジィジィと羽虫たちが鳴く様子は、夏が目前であることを教えてくれていた。寝静まった廊下をひたひたと歩き部屋に向かう。物音をたてないようにドアを開けると、暗がりから人の影が見えた。彼女は「アインツなの?」と小声で呼びかけて、それがまったくの別人だと知る。

「俺だよ、俺。暴れないで、俺の可愛い子」
「……もう、ナハト様ったら『また』忍び込んだの? 誰か呼ばれても文句は言えないわよ」
「これくらい訳はねえよ。少し急ぎだったからさ、窓から入ったほうが早いし」

 抱きしめられた瞬間、ほんのり香る甘いコロンの匂い。もふりと靡びく黒毛のファー飾りに、いつもの臙脂色のコートを肩から掛けて羽織っている。淡い紫のベストを着こなしながらも、女性らしいシルエットのドレスシャツからはヘソや腰元がかすかに覗く。彼の挙動に合わせて腰元を飾る真鍮のチェーンがしゃらしゃら鳴って、触れてくる手元はいつもどおり純白の手袋が包んでいる。
 言い分に呆れ返ってシエルは思わずじっとりとした視線を向ける。これと言って悪びれた様子もなく、そんな表情だって可愛くて仕方がないと言いたげに抱きしめてくる。問い詰めるのも馬鹿らしくなりながら腕のなかへと落ちつけば、ナハトは途端にだらしない顔をした。

「明日ちょっとだけ俺に付き合って欲しいんだけど、厳しいか?」
「ずいぶんと急ね。明日なら午後が空いてるわ」
「シャーロッテ通りの三番街、西通りの方向で待ってるよ。じゃあな、ゆっくりお休み」

 手早く要件を伝えた彼は窓ぎわに立ったかと思ったら、掛け声ひとつかけながら屋敷の庭へと木を伝って降りていったではないか。ご丁寧にも侵入経路から出ていった様子に無駄な律儀さを感じたのは言うまでもないだろう。

「考えても仕方がないわね。おやすみなさい、ナハト様」

 シャーロッテ通りの三番街西通り。指定されたその場所は噴水のある広場から二本くらい奥に入ったところだ。住民からは図書館通りなどと呼ばれていて、いくつもの本屋がひしめきあい、休憩のための喫茶店なども集まっている。
 窓から外を見ればナハトが慣れた様子で門を乗り越えたのが見えた。門を越えたり窓から出入りしたほうが早いとか、一体どんな生活をしてきたのか想像もつかない。詮索をしても仕方がないと諦め、大人しくベッドにもぐりなおした。



 夜中のおかしな時間に目が覚めたせいだろうか、その日はいつもよりずっと早く目が覚めた。窓から差し込む陽射しは少し強くて、肌に刺さるようだ。朝食のために身支度を整えたシエルは慌ただしい厨房を覗く。そこではメイドや貴隷たちの胃袋を満たすべく料理の腕が振るわれている。
 ザームで採れた野菜たちは刻まれてポトフとサラダに、豚の腸詰めはフライパンでカリッとするまで焼かれて少しの塩と胡椒《こしょう》をふる。鶏卵の黄身が鮮やかなふんわりとしたオムレツや、焼きたてのトーストもきちんと人数ぶんが並んでいた。

「……シエル様? 珍しいですね、このような時間にお目覚めなんて」
「貴女の言いたいところは分かるわ、サラ。ほら、せっかくの朝食が冷めてしまうわ。皆でいただきましょうよ」

 朝食を済ませると約束の時間に遅れないよう簡単な書類にだけ目を通す。軽く執務を済ませると、ちょうど近くを通りかかったサラに行き先を伝え、日傘をさして屋敷の外へ出た。
 ここから三番街西通りへは少し遠く、十五分くらい歩くことになる。上会から帰る貴族たちとすれ違いながらルブルムの街を歩いた。道中に子供たちが元気に遊ぶ声が響く。その声と比べたら街の空気はまだ重たく、どんよりと沈んだようだ。遊ぶ声も靴音も、突き抜けるような空の青さでさえも、すべてが空虚に感じてしまう。

「飲んでるのアルデンの茶葉か? 本当に好きだな」
「確かに好きなのもあるけれど、アルデンならどんなお菓子でも美味しくいただけるでしょう?」
「どんな菓子でも合うってのもあるだろうが……香りも良くて飲み口が飽きないからだと思うぜ。ほら、あーん」

 じきに旬になりだすチェリーや桃といった季節のフルーツをふんだんに使ったタルトを口にしながら、シエルはアルデンティーを楽しむ。ティーポットから漂う匂いに、なんとなく懐かしさを感じる。今飲んでいる茶葉はダリム領の西北にあるアルデン山岳のふもとで生産されているもので、さっぱりした飲み口と渋みが特徴的だ。一番茶ともなるとなかなかに値が張ってくるもので、これを取り揃えている店は首都であってもそうはお目にかかれない。
 見た目も色とりどりで楽しいフルーツタルトや、甘さが尾を引くクリーム菓子などと一緒に口にするのがオススメだろうか。最後のタルトに手をつけたナハトは、それをシエルに食べさせようとしている。その手を掴み、逆に食すように目線で促すと、意外にも彼は一口だけ味わうのだった。

「ん……ここのタルトなら俺も食えそう。覚えておくか」
「それで? ナハト様、私に付き合って欲しいことって何かしら」
「ミッテ宝石店に付き合って欲しいんだ。カエラの婆さんがどうしてもお前がいいって言うもんでさ」

 合流したナハトと一緒に紅茶を楽しんでいると、ミッテ宝石店の広告を見せられた。一点物の装飾品も素晴らしいが、宝石を飾る台座や装飾の主張が控えめというべきなのか、ゴッテリしていなくて好きだ。そろそろ新作が出てもおかしくない頃合いか。そんなことを思い出していると、先ほどの彼の言葉と意図が見えてきた気がする。宝石店の老主人はジュエリーに合わせたドレスの採寸や試着のモデルが欲しいのだろう。

「恥ずかしいから二度目は……」
「婆さんの喜ぶ顔には変えられねーだろ。……俺も世話になったのは事実だしさ」

 普段は糸の切れた何とやら同然の振る舞いだというのに、こういう時だけ真面目な顔をするのはいかがなものかと思う。シエルは何も言わず「それもそうね」と返すとミッテ宝石店に向かうべく席を立った。ここからあと五分ほどの距離を歩かなければならない。
 大通りへ出て、そこから商店街のある通りへ真っ直ぐ向かう。商店街を抜けて老舗通りへ出ると、右手側に並んでいる三軒目のショーウィンドウがミッテ宝石店だ。

「ごきげんよう。カエラお婆さまはいらっしゃるかしら」
「……! その声はシエル、シエルなのかえ?」
「ええ、私よ……お婆さま。ナハト様を使わずとも、呼んでくださったらいいのに」

 店先にいた老女がこの店を切り盛りしている主人のカエラだ。ぴんと背筋を伸ばして椅子にかけていても、やはり年齢には勝てないのだろう。その両目は明らかに弱り、視界は閉ざされてきているみたいだった。
 シエルが彼女のもとに駆け寄ると、皺だらけの小さな手を握って支えてやる。六十年よりもっと、ずっと働き続けている頑張り屋の手だ。そう思いながら老主人を再び座らせるべく、ナハトに椅子を引かせる。

「あのドレスと首飾りを。早くしておくれ」
「少々お待ちください、ただいまお持ちいたしますね」

 売り子の娘を店の奥へ向かわせると、一着のドレスと首飾りが運ばれてきた。ドレスは黒のサテン生地で金の刺繍が入っており、シンプルな意匠でありながらも豪奢だ。控え目に膨らんだスカートには大胆にも切れ込みがあり、脚線や素肌がそのまま出る作りになっている。首飾りは大粒の柘榴石をあしらったものに金の台座が組まれていて、その台座の周りには曲線が模様を描くように複雑に絡みあっている。見るからに繊細な仕上がりは、まさに職人技と言えるだろう。

「仕立てたはいいものの、このドレスを着こなせる娘はそう見つからなくてのう。……シエルや、どうかばばの願いを叶えておくれ」
「そこにかけてナハト様とお待ちになってて。――着替えてくるわね」
「ああ。婆さんと一緒に待ってるよ、ゆっくり着替えておいで」

 通されるまま試着室へと向かい、いそいそと着替えをはじめたシエル。手早くコルセットを外してスカートを脱ぎ落とす。そして先ほどのドレスを着付けると、姿見の前で立ち姿を確認する。さらりと流したままの髪に櫛を入れ直してもらい簡単にまとめあげた。化粧を整えおえると首飾りを留めてもらう。念入りに再び立ち姿を確認すると深呼吸をしてから店先に出た。

「似合う、かしら……どう? お婆さま、似合う?」
「おお、おお! 礼の仕草ひとつだって理想だとも。ありがとう、シエルや」

 ほんの少し片足を引きながら屈むように膝を軽く折って重心を下げる。スカートの端をつまむと恭しく頭を垂れた。久しぶりのカーテシーに、なんだかむず痒いものを感じる。今こうしてシエルが道楽者で居られるのは、ナハトや資産家たちの協力があってこそだ。それを思えばドレスの試着や、宝石を身につけるくらい造作もないことである。だが、ここまで喜んでもらえると有難さと気恥しさが同時に込み上げてくるものだ。

「クロードの第二夫人は可憐だったが、あまり飾るのが得意でなかったからのう。結局、恥ずかしがって一度も着てくれなんだ」
「そう言うなよ。なんであれ念願が叶ったんだから良かったじゃねーか、婆さん」

 父が娶った二人目の夫人と言われれば母のことで違いないだろう。確かにドレスを着こなすよりも、どちらかと言えば簡素で実用的な衣服のほうが似合いそうな気がすると感じた。肖像画でのイメージしか知らないから何とも言いようがないけれど、自分のような娘を産んだ女性なら平然と馬だって乗りこなしてくれそうであるし……。
 カノンのくせっ毛ぶりは母譲りと言えるかもしれない。髪が短いせいか、どうしてもふわっと毛先が跳ねてしまう。あとは何だろうか、ぱっちりとした目元とか? 改めて探してみれば意外と共通点があるものだ。そんなことをぼんやりと考えながら、少女は老主人との世間話に花を咲かせるのだった。