第五幕 冬の足音




 今ではすっかり橙と紫の濃淡が空いっぱいに広がり、まるで敷き詰めたように小さな星屑の群れがまたたく。夜のとばりが降りるのも、もはや時間の問題だった。陽光で暖まった空気が冷え込んで、だんだんと刺すような冷たさを含む。遠くから聞こえるのは水鳥の鳴き声。気がつけばこのルブルムにも、厳しい冬が訪れようとしている。誰もいない礼拝堂で、シエルは静かにステンドグラスを眺めていた。
 思い出されるのはあの時、セスと交わした初めての約束のこと。それに間に合っていたらなどと、考えても仕方のない、けれども捨てきれなかった希望。そしてその希望を掴むために足掻きつづけると、ナハトに約束したのだ。まるで礼拝堂内の様子を窺がうように、慎重に開けられた扉。入ってきたのは一人の青年で、一番会いたくて、でも会いたくなかった顔だ。長椅子に座る、その微妙な距離がなんだか寂しいなどと思ってしまう。言葉にしたところで今更と思われるだろう。それでも口にせずにはいられなかった。

「ねえ、セス様。あの時、間に合っていたら……何か変わっていたの?」
「…………。それは、お前次第だ」
「分かってはいたけど、ずいぶんとずるい言い方をなさるのね」

 想像どおりの回答。シエルの口端に浮かんだのは失笑だった。彼が何を思っていようとも、明言できないのは分かっているのに。魔術師として劣る以上、他に勝るものがあってもまったくの無意味。それが嫌というほど染みついているのだから。
 そのたびに彼女は思うのだ。天才直系の子――それにどんな価値があるのかと。確かに、残された魔術理論は理解できたし、再現だってできた。でも、それができたからといって、欲しいものはいつだって手に入らなかった。むしろ、遠ざかる一方だった気がするのだ。伯爵様だって、と思い出して途端にこのあとの執務が億劫になる。本当なら門前払いしたかったが、火急だと言われて約束を取りつけてしまった。当日を迎えてしまったのだし、こうなってしまっては諦めるよりほか無いだろう。

「どうした? やけに気が重たそうだが」
「このあとの予定が少し。ねえ、セス様。お守りってお持ちで……ないわよね」
「……男除け程度なら可能とは思うが」
「お願い。気休めでも構わないわ」

 セスはしばらく腕を組んで何やら思案し、ふと妙案が浮かんだのかシエルの足許に跪づく。組まれた脚線を確かめるように撫で、ふにっとその弾力を確かめる。無防備なそこに唇が寄ったかと思えば、鬱血した痕がひとつだけ残された。顔をあげた男は少女の表情を覗き「これで我慢しろ」と言ってはニヤリと笑う。
 彼は何も知らないが、分かってやっているならタチが悪い。そう不満をこぼそうとしたが、想像以上に羞恥心が込み上げてきてシエルを黙らせた。確かに『男除け』の一種ではあるが、これでは火に油な気もする。だが、とりあえずのお守りは得たのだ。これで避けきれるなら良いのだが。少しだけ上向いた気持ちに、我がことながら単純だと笑った。

「お嬢ちゃん。そこの道行くお嬢ちゃん」

 礼拝堂を出てとぼとぼと歩いると、どこからか物乞いの声がする。シエルがそちらへ視線を流すと、そこには薄汚れた傷病兵の姿があった。三年戦争のおり、レムギアの国土はほとんど焼かれなかった。とはいえ、こうしたところで傷跡が垣間見えてしまうものである。まるで生きたゴミでも見るような視線を向けられる姿に、少女は思わず視線をそらした。そして何も見なかったかのように歩を進める。すると、猫なで声が身もふたもない罵倒に変わった。口汚く罵る姿から、今日の生活にだって困っているのは明らかだった。
 ぱっちりとした目元にふっくらとした唇。それから高い位置で絞られた腰に、その年齢にしては慎ましい胸元。こうして静かに着飾っていれば貴族の箱入り娘に見えなくもない。実際にそれなりの生まれだが、貴隷調教師をしている変わり者だ。
 今だって何も一切の財を恵めないわけではない。その気になれば少しだって恵んでやれる。だが戦争で負けた以上、彼のように困っている者などいくらでもいる。彼ひとりだけを特別視なんてできない。ましてや一時の感情に任せて施すなど、与えるのであれば平等であるべきだ。それゆれにあえて『恵まない』という選択肢を取ったのである。

「シエル様、お客様をお連れしました」
「そう、ありがとう。下がって構わないわ」

 小間使いからかけられた声に、シエルは冷えきった紅茶を流し込み渇いた喉を潤す。買い取ってきたときよりずっと血色のいいアインツは、屋敷での仕事にも慣れてきていた。元より素直な性質なおかげか柔軟に物事を吸収していく姿には微笑ましいものがある。
 そんな少年の後ろ姿に続くのは壮年の紳士だ。整えられ口髭を撫で来客用のソファーに腰を落とす。この部屋の主人に穏やかな、それでいて獲物を狙うような鋭い視線を向ける。

「カインおじ様……。いつ、戻ってらしたの?」
「つい三日ほど前にな。元気だったかね、シエル殿」

 それとなく敬称で呼んだ紳士は、どうやら少女の近況を知っているようだった。シエルが宮廷社交界に出入りするようになって二年――偽装した手紙だけのやりとりだったというのに。この男のことだ、きっとその偽装すら見抜いている。欺いたことすら許し、そこまでして自分を手に入れたいのか。
 まるで子供を座らせるよう膝上にシエルの半身を乗せるが、それにしてはどことなく淫靡な仕草。そう感じてしまうのは、カイン伯爵との想い出がそうさせるのだろうか。少女が静かに身を離すと紳士の声音がワントーンほど落ちた。

「いやだわ、おじ様ったら。急にかしこまったりなさって」
「はは、なかなか似合っているよ。ところで……私との結婚は考えなおしてくれたかな? いつまでも待てるが、このままでは老いぼれてしまうよ」

 結婚。自分が誰かと所帯を持つ。女なのだし、いつかはと思う。だが、この国の誰がシエルという個人を求めてくれるのだろう。魔術師である以上、才能のある子が欲しい。自身が誉れ高いなら、それに見合った子孫であって欲しい。家督であったらなおさらの願いだろうと思う。だが――。

「おじ様が本気なのは分かるわ。でも、そういった感情が薄いみたいで、その……」

 自然と発する言葉の歯切れは悪くなる。この男だから結婚したくないのか。なら、他に誰がいる。誰のために帰りを待つ身になりたいのだろう。誰との子が見たいのだろう。ぐるぐると思考はめぐり続ける。
 堂々めぐりの様子を壮年は冷たく笑った。そうして彼はシエルを深く腰掛けさせてしまうのだ。あの時みたいに半身を背凭れにして尻の柔らかさを伝えると、その尻溝に萎えてもなお存在感のある肉茎が押しつけられた。

「倅とも会ったのか。ずいぶんとあれが騒がしかったものだ」
「ええ。……素敵だったわ。夫人はお飾りが過ぎるのではないかしらと思うけれど」

 やれやれと煩わしげに肩を竦めたカイン伯爵に、ふと彼の姿が重なる。父子なのだし当然だろうが、意識した途端にとんと直視できなくなってしまう。きちんと声を発したはずなのに、シエルの喉から出たそれは弱々しく「カインおじ様」とたった一言だった。
 別に誘っているわけでも、手酷くされたいわけでもない。だと言うのに芯を持ちはじめた肉茎を突き入れられることを望むかのように、ふるりと身を震わせてしまう。歪に皺を寄せた紳士は、恥じらいの色を浮かべる様子に満足したのか「そんな声を出しても駄目だ」と意地悪く預けたのだ。

「倅は何も知らないのだろう? 知りようもないだろうなあ、お前の望みなどささやかであるとさえも。――酷い男じゃないか」

 そう吐き捨てた紳士は席を立ち、窓辺から庭を眺めては問いかけるように緩く首を傾げた。散々そのように躾けておいておいて、肝心なところで預ける。いつだってこの男は焚きつけるだけで、決して自分からは手を付けようとしない。
 まるで『理由』を探しているかのように感じられた。ならば、シエルはそれを与えるまでである。出て行こうとする彼の腕を引いて、ソファーに寝転ぶ反動を利用して押し倒させてしまう。すると、貼りつけられている乾いた微笑が一瞬で険しくなった。

「この悪戯娘め。昔は乳首だけが一人前に熟れて、その不格好さが可愛らしかったものだが……お前くらい淫らな娘というのも悪くはないものだな」
「では伯爵様、今からお仕事の時間になさらないかしら。貴方にとっても悪くない話しのはずよ」

 ヒールを脱ぎ、タイツだけの足先でその中心を撫でまわす。シエルがそうして遊んでいるあいだにも、カイン伯爵は手慣れた様子でウエストを絞るコルセットをたどり、手間取ることなく外してみせる。まるで幕のようにスカートが垂れ下がって、美しい脚線やガーターベルトが覗く。白く張りのある太腿――その一箇所に食んだような痕がある。どう見ても真新しい痕跡に、忌々しいと言いたげに壮年は歯を立てた。

「……っあ! ん……んっ……」

 すでに湿っているショーツのクロッチ部分を右側に寄せると、ようやく顔を出した無毛の恥丘をツゥッと軽くなぞった。剥いた卵の白身のようにつるんとした肉丘には、薄桃色をした縦溝が深く走っている。それを菱形に割り開けば、とろりと蜜が垂れ落ちてきた。ぷくりと膨らんだ淫芽がカイン伯爵の唇で食まれ、ざらついた舌で転がされる。強弱をつけながら吸いつかれるたびシエルは小さく肩を跳ねさせながら堪える。執拗なまでに繰り返されると、やがてぴんっと太腿が張った。

「ふぁあ、ああああ! い、一回目です……カイン、おじ様……」
「まだ覚えていたのかね。良い子だ、シエル」

 革張りのソファーにまでびちゃりと愛蜜がしたたった。恥裂の造形を舌先でたどり、細腰を持ち上げてはその奥にある窄まりへと捩じ込まれる。瞬間、久しく与えられなかった快感が突き抜け一瞬で果ててしまっていた。達するときにはその回数を数える。消え入りそうなほど小さな声だが、壮年の耳には実に心地よく響いた。
 褒めるように尻肉が撫でられ、指先が秘孔を広げた。根元まで押し入ってきた指の数は増えていき、具合いを確かめてはゆっくりと出し入れされる。子宮の裏側から刺激され続けて、やがて耐えかねたのかびゅくりと潮を吹く。あの頃はよくお伽噺を読んでやりながら、彼女の望むまま肉茎を突き込んでやった。瑞々しい肉の奥の奥まで丹念に洗ってやったりしたものだった。シエルは甘い叫びをあげながら、自分が作った蜜溜まりへとぐったり身を沈める。短い舌を出しては何度も呼吸を整えていた。

「好色が過ぎるぞ、特務少将」
「英雄とは色を好むものだろう。違うかね、少佐殿」

 殺気にも近しい威圧感を放ちながら、乗馬鞭の切っ先がひたひたとカイン伯爵の頬に触れる。思いきり叩くように振るわれると、それはスカッと空を切った。薄暗かった部屋の魔術灯に魔術が灯る。すると、先ほどまでそこに居たはずの紳士の姿は無かった。代わりに残っていたのは一通の手紙。どうやらそれに術が仕込んであったようで、肝心の術者である壮年はとっくのとうに姿を消していたのだ。言動や行動ひとつ、どれを取っても幻影だと見抜けなかった。
 いつから? どこから?
 完全に踊らされていたと理解したシエルは、動揺と同じくらい苛立ちを隠せない。特殊なインクで綴られた言葉はただ一言「誕生日おめでとう」との旨だった。これのどこが火急の用事だと言うのだ。その怒りを代弁するかのように、手紙を拾いあげたセスは容赦なく破り捨てた。
 ほんのわずかな時間とはいえ、彼女はあの男の術の支配下に置かれていた。その思惑を考えるだけでゾッと悪寒が走る。カイン伯爵が一番に得意にしているのは、他者の精神に働きかける魔術になる。それを前にすればシエルが何を思い、何を感じようとも、否応なしに手を入れられ引っ掻きまわされた気がして許せないのだ。

「それより、どうしてセス様が? 人は払ったはずなのに……きゃっ!」

 大きな体躯に力強く抱きしめられる。とっさの出来事に小さく洩れてしまった悲鳴。それが聞こえたのだろう、少しだけ抱きしめる力が緩んだ。けれど、決して離してはくれなかった。シエルが静かに表情を窺がえば、そこにはまるで自分が傷ついたかのように歪んだ顔があった。視線に気づいたのか、それは隠すようにそらされる。
 彼が見せるその表情には駆り立てられるものがある。セスの眼前で散らされた瞬間――あの時もこんな表情を見せていた。はっきりと瞼の裏にこびりついて、今になっても剝がれない。高揚感でない何かがわきあがり、ざわざわと心が騒ぐ。

「外交官が帰還した旨を聞いて、嫌な予感がした。悪くない話しなどと、あの男に何を。あの男がお前を見ているわけではないことくらい、分かっているだろう」
「…………。伯爵様も姉上も、ナハト様だってきっとそう。気が狂っているのではないかしら」

 愛しているなどと嘘でまやかしだと、都合のいい肉人形を得るための口実だと誰か言ってくれ。お前より彼女の方が好みだと、お前など顔の似ただけの女だと。そのほうがいっそ清々しいくらいだと言うのに、誰もが揃ってあの手この手と小賢しい。
 つい辛辣な言葉を選んでしまう。ぐしゃぐしゃにかき乱されすぎて、思っているよりも心に余裕がない。切羽詰まって余計なことまで口走りそうだ。シエルが発した言葉の端々から何かを感じ取ったのだろう、セスはさらに表情を歪めた。そんな彼から言葉少なに絞り出されたのは、意外にも贈り物の話しだった。

「冬の決まった日に、真っ白な薔薇が届くんだ。僕に白い薔薇を贈りたがる女なんて、生憎と一人しか知らない」

 ローデの屋敷にあった薔薇庭園。そこを手入れしてくれていたのは初老の庭師で、引退するその日まで手入れを欠かさなかった。熱心な彼の仕事ぶりを眺めながら、若かったセスとシエルはお互いに似合う色の薔薇を探していた。普通なら、色恋の感情を踏まえて赤い薔薇を渡すところだろう。だが、その時にセスが選んだのは可愛らしいピンクの色で、彼女から贈られたのは真っ白なものだった。
 生家よりシエルが姿を消してからと言うものの毎年、男の誕生日になると決まって薔薇が届いた。送り元はバラバラの都市で不定。決まって無記名のカードが添えられていた。その意図はいまだに読めないままだが、いつも話しを聞いてくれたナハトは「早く見つけてやれよ」と腹をかかえて笑った。そこから推察するに、兄も知る誰か――と目星をつけてみたが、ここにきてようやく合点がいった。

「受け取ってくださっていたの? 嬉しいものね」
「その返しになるか分からないが、お前にドレスを仕立てたい。……駄目か?」

 驚いた表情をした彼女に、セスは悪戯が成功したような気持ちになる。ぱっと頬に赤みがさして「ありがとう」との礼が聞こえたが、その言葉尻はほとんど聞こえなかったようなものだ。

「それと、お前の休日が欲しい。会いたがっている娘が居るんだ」
「私に? どんなお嬢さんかしら。直近なら来週、ザームの屋敷を手入れに行くときね。大丈夫であれば伝えてくださると嬉しいわ」

 改めて休日を請求されたシエルは、そわそわと落ち着きがない。誰だか気になるといった様子だが、当日までの秘密にしておこうと思う。話しにひと段落ついたところで十八時を報せる鐘が鳴った。執務が残っているセスは、それを切りあげるべく軍部へと戻っていった。


***



「残りのご報告になります」
「ああ、ご苦労。彼にはこちらの書類を持たせてやってくれ」

 手短に指示すると、反対側の書類が渡される。その様子に無表情をとおしながら、セスは思い出したかのように息をひとつだけ吐いた。秘書のおかげで厄介な書類を押しつけることに成功したのだ。慌ただしそうにしていた彼には気の毒だが、司書隊にだけは出向きたくない。それが仕事で、必要だと言われてもである。
 つい数日ほど前まで外交官として聖王国に出向いていた男が帰ってきた。ある者は素直に帰国を喜んだかもしれないが、当の息子がそれを喜ぶかと言ったら否である。近衛師団の司書にして、先の戦争の功労者――特務とは名ばかりの好事家な少将だ。
 誕生日おめでとうなどと手紙には綴ってあったが、そんなの九割が口実だ。真意がなんであれ、眼前でシエルに不埒な真似を働いていたのには変わりがない。それに、短時間とはいえ精神的な干渉を受けていたシエルの様子も気にかかる。

「人を払っておきますね、少佐」
「助かる、伍長」
「ちなみに本日は三十二回目ですよ。日ごとに増えていきますねえ」

 感心した様子の伍長はティーセットを片付けながらクスクスと肩を揺らす。近衛の受付に配属された時点で多忙なのは理解しているつもりだが、その息抜きと称して上司の困り顔を日ごとにカウントするのはやめて欲しいものがある。
 実に他愛ないやりとりをしているうちにも時間を迎えたのだろう、執務室のドアが叩かれる。セスが入室を促すのと同時に部屋を出て行った伍長。すれ違いざまに談笑が聞こえたが、早々に切りあげられて一人の少年司書が入ってきた。

「せっかくの美男が台無しじゃないですか。クロイツ少佐」

 少年は開口一番に茶化してきた。まるで今さっきまでそこに皺が寄っていたのを知っているかのように、さすさすと眉間をさすってくる。
 榛色の髪は癖でもあるのだろうか、ふわりと軽く跳ねている。ぱっちりとした紅い瞳がセスの表情を覗き込み、その仕草からはどことなくシエルと同じ雰囲気を感じさせた。それでいて見慣れない顔に、セスはますます眉を寄せたのだった。

「依頼しておいて僕には気づいてくださらないんですか? 久しぶりに会えると思って楽しみにしてたのに」
「……は? 私の依頼は司書隊の秘書官殿に……」
「僕があの人の秘書なんですってば! なんで近衛の人たちって僕のことを信じないんですか、その両目はきちんと見えているんです? 飾りなんじゃありませんか」

 誰か冗談だと言ってくれ。ただでさえも宮廷に連れて行ったナハトの事後処理に追われているというのに、これ以上の子守などできかねる。それが表情に出ていたのだろう、自称秘書官の少年は声を荒げて毒づき、階級章を突きつけてきた。
 そこには確かにカノン=ヴァンベルグと銘がうたれており、准尉の地位と特務少将づきの秘書であるとの身分を示していた。セスが把握していた限りでは、司書隊の秘書官はずっと空席だったはずだ。いったいどういう風の吹きまわしなのだろう。

「正直へこみました。でも、そういうところも変わりなくて安心しました」
「す、済まん。司書はどうにも苦手でだな……気づけなくて悪かった、カノン」
「……はあ。それより大尉――姉上の視察の件ですけれど」
「何か掴めたのか?」

 もごもごとセスが言い淀んでいると、カノンは資料を広げながらソファーに落ち着く。あれこれと情報を交わしながら、雑談をするかのように軽く本題が切り出された。それは司書なら誰しもができる話術になるのだろうか、どことなく兄と話しているかのように錯覚する。
 広げられた羊皮紙は、レムギアの国内を描いた地図になっていた。中央領を示す箇所から国土の端っこ、空白の領地がさし示される。確かそこの領主は不在で権利も失効――家そのものが取り潰されたと記憶している。キーリカ領と比べたらずっと不毛の地で、馬車が行き来するにも難儀する道の悪さだ。
 そんなところに、ユニアはもっともらしい理由をつけて向かわされた。憲兵隊の長ともなれば、個人差はあれど法務院にも顔が利く。そんな彼女を、面倒な手段を使ってまで中央領から彼女を排除した。そうまでしてカイン伯爵が遂げたい目的などひとつしかない。

「今度こそ上手くいきますよね? シエルを誰かに、それこそ他人ってだけで好き勝手されるのだって嫌だって言うのに。ましてや彼女を愛してる? 気持ち悪くて吐きそうだ」

 あどけなさの残る面差しに彼が浮かべたのは、剝き出しの憎悪だった。彼もまた見えない亡霊に怯え続けているのだろう。だとしたらカノンは、シエルはどれだけ泣き濡れてきたのだろう? それを思うと、セスは返す言葉が無くなってしまう。
 お前たちが、どれだけ両親に望まれた存在であったか話しても無駄だ。二人の想い出や記憶といったものに、少しだって残っていないのだから。彼らが望まない以上、話してやるだけ酷な思いをさせるかもしれない。それを考えると、気の利いた言葉が出てくるわけでもなく。

「善処する。今度こそだ」
「…………。じゃあ、僕はこれで失礼しますね」

 よくよく注意深く見てみれば、カノンの様子もどこか可笑しい。普段はおとなしいくらいだというのに、まるで水面に波紋がたっているような印象を受ける。何かに影響されて増長しているような……他者の意図を感じてしまうのは気のせいだろうか?
 就業の時間を告げにきた伍長と入れ替わるように、カノンは部屋を出て行く。広げられたままの資料を片付けると、セスも続くように部屋を出て行った。ただ一言「一等地に居る」と書き残された筆跡を信じて、この日は帰宅することにしたのだ。

「お帰りなさい、お兄様。……お兄様?」
「あ……ああ。ただいま、シェリー」

 一等地とは反対側に馬車が走り、いつもの路地で停まる。今日も夜がきて時間が過ぎ、明日も朝陽がのぼる。そんな当たり前のことが億劫に感じるのは何故だろう。本日も激務だっただろう兄の様子を、妹は心配そうに見やった。

「シェリー、今度の休みに少し屋敷を出ないか? お前が会いたがっている調教師の日程がもらえたんだ」
「ほんとう? ありがとう、お兄様! どこまで行くの? どんなお洋服がいいかしら」

 季節が秋から冬に移ろったこと、それから風通しのいい農耕地に向かうことを考えれば、厚着になるのが自然だろう。シェリーは冬用のコートを見て決めあぐねているみたいだった。妹の無邪気な姿に、昔メイドづてに聞かされたシエルの姿が重なる。
 セスが寄宿先から戻る前日ともなると、彼女も決まって洋服の詰まったクロゼットを引っ掻きまわしたのだと。それと似たようなところ……なのだろうか? 子供の成長は想像よりもずっと早く、特に異性だからそう感じるのか実に鮮やかだ。

「お兄様、これじゃあ派手かしら」
「派手ということは……ああ。彼女は年相応なくらいが好みだと思うぞ」
「なら、こっちにする! えへへ、楽しみ」

 無難な答えすぎただろうが、あながち間違ってはいないはずである。目に見えて表情を明るくしたシェリーは、洋服を片付けると今度は文机に向かった。数あるなかから選び出したのは、落ち着いたアンティーク調の便箋と封筒。いかにも受け取り主が好みそうなものだが、どうやってそれを知ったのだろう?

「この前ね、白百合様がお見えになって。また遠くに出てしまうからって、調教師様のことを教えてくださったの」
「そういうことか。それなら間違いないな」

 手紙を綴りはじめた後ろ姿を眺めつつ、事前にユニアが顔を見せに来てくれていたことには驚いた。彼女との付き合いは古くて、長い。似たような境遇なのも手伝ってか、幼なじみのような姉弟みたいな……いざ言葉にすると形容しがたいものがある。たとえ形容しがたくとも、良好な関係であることには変わりがない。

「ねえ、お兄様。お兄様は白百合様のこと、お好き?」
「あの潔さは好ましいが、それ以上かと訊かれたら少し違う気がするな」
「じゃあ、ナハトお兄様のことは?」
「尊敬できないこともない。だが、いい加減に相応の生活をして欲しい」

 弟としての切実な願い。それが言葉の端々からも滲んでいたのだろう、シェリーは「確かに」と納得した。ナハトと初めて会ったときの彼女は、青年たちを指さして「ほんとうに兄弟なの?」と首を傾げたものだった。
 こうして話しているうちにも手紙を書き終えたのか、丁寧に蝋印で封をする。妹は何も言わずに、それを兄に託した。自分で渡したらどうだと返したが、頑ななまでに「恥ずかしいからお願い」の一点張りだった。


***



 拝啓、調教師様。
 初めてのご挨拶が手紙である無礼、お許しくださると嬉しいです。
 お兄様は、きっと誰よりも調教師様がお好きだと思うの。だから、飛ぶことを忘れてしまう前に放ってあげて欲しいです。お会いできるのを楽しみにしています。
 
――自由な小鳥より



 シエルの元に可愛らしい手紙が届いた。特別な羊皮紙に綴られた青い文字たち。心から筆記している内容を望み、求めている何よりの証拠だ。送り主は誰とは名乗らなかったが、セスを兄と呼んで慕っている少女であろうことは想像がついた。
 ほんの一時、社交界で噂がたったのだ。近衛の将校が、名も知らぬ少女を引き取ったらしい――と。すぐに立ち消えてしまったから確認のしようが無かったが、事実だったとは。

「ほら、次だ! 早く打ち込んでこい」
「この子はともかく、僕は遠慮しますね」
「カノン様……うう、頑張ります」

 真っ直ぐでいじらしい小鳥に返事を書こうとして、なかなかどうして困っている自分がいた。困り果てながら庭先へ出れば、聞こえてきたのは剣戟の音。
 暇を持て余したセスによる、地獄絵図にも等しい稽古が始まっていたのだ。すっかり息を乱したアインツはくたりと座り込み、話しを振られたカノンは大慌てで逃げてくる。

「あ――シエル。……けほっ」
「やだ、レイル風邪じゃない。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。心配性だなあ、シエルは」

 大丈夫と言いながらも、カノンは喉に絡むような独特の咳を何度も繰り返している。額に触れてみると平熱よりも少し熱かった。レイル風邪は感染力こそ皆無に等しいが、他の病気を併発しやすい特徴がある。大人は滅多にかからないものだが、念のためにと薬は常備していた。
 いくら常備しているとはいえ、現在ある薬は月日が経ちすぎていて効能のほどは怪しい。シエルはメイドの一人を捕まえて買いに行かせると、問答無用で兄の腕を引っぱって避難部屋へと連行していった。

「……もう。すぐに無理しようとするんだから」
「ごめん。ここのところ忙しくて、どうしてもね」

 汗で身体に張りついたシャツが皮膚さながらに剥がれてく。そのまま妹の気が済むように、黙って背中を拭かれている。すると、何かに気づいたように小さく洩れ出た「あ」という声。
 彼女の、シエルの視界にはいくつもの爪痕が残っているのが見えたはずだ。労われるようにそこへ指先が這い、慰めるようにちゅっと柔らかな唇が触れた。今どんな表情をしているかなんて想像がつく。きっと自分のことのように痛みを感じているに違いない。

「居るか? カノン」
「セス様……と、林檎……ですか」

 遠慮がちに入ってきた青年の手にあるのは風邪薬、それから小脇にかかえられた紙袋には林檎が小さく山になっていた。青果屋のおば様が渡した林檎には、下心がありありと透けて見える。受け取りながらもそれに気づかないあたり、実にこの堅物らしいというべきか。
 まだローデの屋敷に居た頃の話しだ。不器用なナハトが林檎の皮を剥くのに執心していたことがあり、非常に不格好な見てくれをした果実ばかりを量産していた。有り余るほど剥かれた実の処理に、運悪く風邪をひいていた双子が宛がわれたのだ。
 そんな経緯があって以降、シエルは林檎を生で食さなくなった。真っ赤に熟した果実を見るなり、目に見えて渋い顔をしたが、セスは意に介さず果物ナイフで器用に剥きはじめる。

「ほーら、ウサギさんだぞ。お姫様」
「もう、カノンったら。ナハト様って、もっと」
「……兄さんの真似はよせ。馬鹿が伝染する」

 大真面目な顔をしたセスは、あっという間に林檎でウサギを形作った。苦手だと知っているはずなのに、それなのに大好きなウサギを作るなどと実に罪深い所業だ。内心ではそう思っていたが、シエルは黙ってその様子を眺めていた。すると完成したウサギが飛び跳ねるように動かされ、もの言いたげな少女の唇に触れた。驚いて身動きの取れなかった様に満足したのだろう、男の口端がかすかに持ちあがる。そして何事も無かったかのように自身で食べてしまうと、新しい果実に手を伸ばす。
 その一部始終を見ていたカノンは「セス様のそういうところですよね」と呟いて布団に丸くなった。