第二章 花食みの影
「シエル様。ミッテ宝石店からのお客様です」
「通しておいて。すぐに向かうわ」
数日が経ったある朝の朝刊を読んだシエルは、大きく取りあげられた内容が信じられなかった。いつもなら流し見るだけだった見出しには、ミッテ宝石店の老主人が亡くなったと書かれていたからだ。死因は老衰で、流行り病でなかったことがせめてもの救いだったかもしれない。彼女は時代の、流行の先端を走り続けた女性と言っても過言ではない。女一代で宝石店をはじめて、念願叶って首都に出店した頃には四十もなかば。生涯独り身で、身寄りらしい身寄りも他に無かったそうだ。
メイドに呼ばれて重たい気持ちのまま応接間へと急いだ。訪れたのはあの時の売り子で、彼女が手にしていたのは柘榴石をあしらった首飾りだった。シエルの姿を視界に入れると深く頭を下げる。顔を上げてくださらないかしら。確かにそう言ったはずなのに、上手く言葉にならない。それどころか、ぽたりと熱い涙が伝い落ちた。一度垂れ落ちてしまえば、あとはせきを切ったように流れ出てきたではないか。
「こちらをどうか。シエル様へとお届けするよう、カエラより遺言がありましたので」
「……そう……。あんなにお元気そうだったのに、ちっとも気づけなかったわ。これから皆はどうされるの?」
「それが、私たちの身のまわりまで世話がされていて。どこまでも抜かりがなくて、本当に最期まで店に出ていらして……」
女性は声を詰まらせながら、それでも精一杯の笑顔を見せた。その様子から最期が訪れるその瞬間まで、老主人は老主人だっただろうことが窺えた。きっと、ナハトは知っていたに違いない。近くに老女カエラの命が燃え尽きることを。だから夜中に突然ふらっとやってきて……それなら時間が無いと言っていたのも、なんだか頷ける気がした。
「どうかゆっくりなさっていって。お疲れのせいか少し顔色が悪いわ」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。お恥ずかしながらあまり、眠れなかったもので……」
「部屋を用意させるわね。サラ、彼女をご案内して差し上げて」
控えていたメイド頭は「かしこまりました」と言葉にすると客室へと案内していく。ふらついた足取りを見るからに、睡眠不足だけでは無さそうだ。シエルは軽食の手配をすると執務室に向かう。正直とても仕事をする気になれないが、少しでも何かをして気を紛らわせたいのが本音である。書類を一枚また一枚と消化していくが、その速度は目に見えて遅い。普段ならとっくに終わっている時間だ。
「――はい、そこまで。いい子は少し休憩しような」
「ナハト……さま……? いつの間に……」
「今日はちゃんと玄関から来たぜ」
まるで大きな犬が尻尾でも振りながら褒めてくれと言いたげだ。素直に玄関から来たことを褒めるべきか、などと考えているうちに書類を没収されてしまう。シエルは何も言えずされるがままだ。ソファーに座ったナハトの膝を枕にさせられて、あやすように何度も撫でられる。かすかに伝わってくる体温が互いに生きてることを証明している。大丈夫、と謎の安心を感じた。
「心残りは無いほうがいいだろ? あのドレスが誰かに着てもらえるところ、ずっと見てみたかったみてーだからさ」
「……うん」
「人間、いずれは等しく死ぬ。それが他人よりちっと遅いか、早いか――それだけさ。婆さんはよく生きたよ」
最期まで勤め先とか決めてたみてーだしな。そう呟いた彼はとんでもないと言いたげに身を縮めた。到底真似できない、とも言いたげである。
「なあ、シエル。もしお前が嫁に行くときはさ、お兄ちゃんにエスコートさせてよ。駄目か?」
「どうしたの、唐突ね……? 私は別に構わないけれど、それって一般的には父様のすることよね?」
投げ返した疑問に答えられることは無かった。喜んだナハトの表情はなにを考えているのか、みるみるうちに脂下がってく。そんな様子にしょうがないと思いながらも、楽しみにしてくれているなら良いかと思うことにした。
「で、目当てのセスには会えたのか?」
「ええ。少し前の夜会で」
「……そうか。それなら良かったぜ」
先導されるまま話題は移ろってく。セスに会えたこと、昔と変わりないこと。それから気になっていた素材を買い取れたことを伝えると彼はまるで自分のことのように喜んだ。頑張ったな、と珍しく言葉少なに褒めるとシエルの髪をわずかに掬って口づけを落とす。手慣れた様子の仕草が、なんだかお伽噺じみてて恥ずかしいものがある。もぞりと動けばその距離は離れた。
「今日は早く寝ろよ。――約束な」
「分かったわ。なるだけそうするわね」
静かに差し出されたナハトの小指に自分の小指を絡め、ゆっくりと指切りをする。なにを子供じみたことをとも思うが、これひとつで心配が拭えるのなら安いものだ。それを確認した彼は、まるで見送られるのを避けるかのように部屋を出ていった。