第六幕 白日の幼心




 あれから手紙の返事を書くことが出来ないまま、約束の日は訪れてしまった。収穫が終わったあとの、何もない田畑が続くキーリカ領の冬は寒い。ほんのりと雪化粧をした真っ白な畑に見つけたのは小さな足跡。冬毛が白くて可愛いウサギのものだと分かれば、シエルは童心にかえってその姿を追いかけまわした。
 遊んでいると定刻を報せる鐘が鳴り、思い出したように捕まえたウサギを解放してやった。こんなことをしている場合じゃないと、雪を払いながら大慌てで馬車の停車位置へと駆ける。程なくして首都からの馬車が停まり、降りてきたのはセスと彼に連れられた一人の少女だ。
 恥ずかしそうに青年の背中に隠れた彼女の言葉は少なく、でもはっきりシェリーと名乗った。幼い仕草がカイン伯爵と出会ったばかりの自分自身と重なる。とっさに姉の背中に丁度こんなふうに隠れたものだった。

「そう……貴女がシェリーと言うのね? ごめんなさい。寂しい思いをさせてしまったわ」
「そ、そんな……! お忙しいと思っていたし、こうしてお会いできたから、その……」
「まあ、ありがとう。貴女は優しい子ね」

 話しをしながら冬の道を歩いてザームの屋敷へと落ちつく。きちんと手入れの終わった屋敷の応接間で、暖かい紅茶を楽しむのだ。それがひと段落つけば、生前父の書斎だった書庫を見ていた。
 書きかけの論文や創りかけの魔導書を見つけ、シェリーは宝の山だとはしゃいだ。楽しい時間はあっという間で、腹が空くのもあっという間だった。台所の一角を占領したシエルはてきぱきと料理の腕を振るう。作るのは勿論、客人をもてなすための伝統料理だ。

「……この匂い、どうして」
「書斎に書き留めてあったレシピなのだけれど、何かご存知なの?」
「お前の母の手料理と似てる気がしたが、そんなところに書き留めてあったのか。正直、二度と口にできないと思ってたからな。……驚いた」

 臭みの少ない子羊のロース肉を赤ワインでくつくつと煮込み、ほろりと噛み砕けるほどに柔らかくする。付け合わせには塩漬けにした鹿肉を削いだものに、貯蔵していた野菜たちを絡めた簡単なサラダ。それからルウェン汽水湖で揚げられた白身でぷりっとした翼魚の腸詰めに、ミゼル貝の香草焼きを添える。毎回のことだがミゼル貝のグロテスクな外見が苦手で、殻から引きずり出すまでが難儀する。シエルは容赦なく濃い塩水に貝を投げ込み、逃げようとして殻から出てきたところの美味しい身を捕まえるのだ。
 香ばしく焼きあげてしまえば、あとは見栄えよく盛り付けるだけである。厨房から漂ってくる匂いに懐かしさを感じながら、自然とセスは表情を緩めていた。皆で長机につくと食前に短い祈りを捧げる。こうして誰かと、ましてやメイドたち含めて和気あいあいと食事を摂るなど、シェリーにとっては初めてのことだった。

「なんだ……シエルか。何処かへ出るのか?」
「ええ、これから少し。セス様も来る? メイドたちには伝えてあるわ、行きましょ」

 玄関ホールに灯りがついている。そのことを不審に思ったセスがそちらへ行くと、防寒のコートを羽織って何やら出かける支度を整えるシエルの姿がそこにあった。訊ねながらも、はなから連れて行くつもりなのか男物のコートをしっかり渡してくる。
 星がまたたく寒空の下をカンテラの灯火だけを頼りに、革袋を持って森林地帯へと踏み入ってく。綺麗に舗装された道を外れて、監視小屋を越えたところから獣道へと分け入った。十五分ほど歩き続け、やがて小高い丘のような場所に出る。ふぅっとカンテラの灯りが消されると薄ぼんやりと淡い光に包まれていたことを知ったのだ。

「これは宵待花の……? 本当にあったのか、驚いたな」

 その場に屈み込んだセスは、そこに咲いている花が高山植物の一種であることに気づく。この国では宵待花などと呼ばれていて、小さなラッパ状の花を咲かせるのだ。花は顔料にもなるらしいが、貴族であっても安易に手が出せないほどの値がつくとは聞いたことがある。
 ザームのどこかにある宵待花の群生地。それは元領主だったヴァンベルグ伯爵が、第二夫人に贈ったものだった。それを聞きつけたナハトと一緒に、さんざんキーリカ領内を探してまわった記憶があるが、灯台下暗しとはまさにこのことだ。

「子供の頃にこの場所に来て、よく遊んだわ。父様の結界があるから、ちょっと見つかりにくいの」
「先生の結界が……? なるほど、それなら見つからないのも分かる気がするな」
「ねえ、セス様。私の父様……ってどんな方だったの?」

 小さな花から少しの花粉を取ったシエルは、化粧を施すようにそれを目元に乗せた。誰にでも同じ顔をする彼女が、こうして自分のためだけに飾ってくれている。その事実が言いようのないくらいに嬉しかった。
 父母を知らないなら、当然の疑問だろう。周囲が囃すほどなのだ、いやでも興味を持つだろう。話しを振られたセスは言葉を詰まらせながらも、様々な記憶から彼らの人となりを教えてやりたいと思ったのだ。

「こう言いたくはないが……兄さんは先生に似た気風をしていると感じるな。捕まえたくても、なかなか難しい」
「じゃあ、母様は? どんな女性だったの」
「先生を捕まえるのが上手くて……笑顔が素敵な。でも、一度怒ると先生も僕たちも何も言えなかったな」

 ふ、と表情が自然と緩んだ。思い返すと過ぎ去った過去も楽しいものだったと、セスは改めて知った気がする。子供じみた悪戯を仕掛けた先生と兄が、父や彼女に叱られるまでが一連の流れだったが、二人揃ってまったく懲りていなかった気がするのだ。
 話しながら表情を緩めた青年の姿に、シエルは物珍しそうにそれを見つめた。そんな彼女は革袋を開けると、小さな植木鉢を取り出す。柔らかくした土を入れ、宵待花の株を少しだけ移す。そうして心ばかりの贈り物を用意すると、まっすぐ屋敷に帰った。

「お帰りなさい、お兄様。ずるいわ、お二人だけでお出かけなんて」
「そんな顔しないで、シェリー。どうしても貴女に渡したいものがあって」
「わたしに……? なあに、お姉様」

 出迎えてくれたシェリーはむくれていたが、贈りたいものとの言葉に興味を持ったみたいだった。作ったばかりの鉢植えを渡すと、少女は嬉しそうにはにかみ大切そうに抱えた。そうして再び書斎の明かりがついて、その日の夜は賑やかに更けていくのだった。


***



 ルブルムの屋敷に帰ってからというものの、シェリーは毎朝の世話を欠かさなかった。
 いつも大切そうに鉢を抱えて日向に出してやり、暖かい陽射しをあててやる。水は頻繁でなくとも大丈夫らしいが、それでもこまめに水をやっていた。
 そんなある日。家主の青年が珍しく欠伸を噛んでいると、カシャンと陶器のようなものが割れる音がした。なんとなく心が騒いでその音がした方向に向かうと、やがて妹の部屋に行きつく。勢いよくドアを開けると、そこには怒りから身を震わせる女と、割れた鉢植えを見やってはすすり泣く少女とが居た。

「義父様も、あなたも、あの人だってあの小娘ばかり! 私の立場は一体何だと言うのよッ」
「僕の動きを縛るための口実。あの男にとってはそれだけの価値だ。だから僕はお前に構わなかった、一切だ。だが――今回ばかりは腹に据えかねる。荷物をまとめて即刻出ろ、二度と伯爵家には関わるな」

 静かに怒りをあらわにしたセスに匿われた少女は、動向を窺いながら怯えの色を滲ませた。こんなにも感情を荒げている兄は初めて見た。たかが鉢植えひとつ。言われれば確かにただの鉢植えだ。だが、そこに込められた気持ちを蔑ろにされた気がして目に余ったのも事実だろう。

「ごめんなさい、ごめんなさいお兄様。鉢植え、だめになっちゃった」
「まだ間に合うかもしれない。代わりのものを用意するから待ってろ」

 メイドに具合いの良さそうな鉢植えを見繕ってこさせると、青年はこぼれた土を集めて土台を作り、宵待花の株を植えなおしてやる。根付くかどうかは分からないが、あのまま枯れてしまうよりはずっと良いだろう。
 今にも泣き出しそうな妹を抱きしめる。遅くとも早くとも、妻とはどのみちこうなったのだ。そのことに関しては一切の後悔は無いが、伯爵に踊らされただけの身の上には同情を禁じ得ない。だからと言って下手に延命させるくらいなら今日が潮時なのだろうと思いなおした。

「シェリー、僕は」
「お姉様とどこか遠くへ行かれるの?」
「……身勝手な兄で済まない。だが」

 セスの身を縛るものは無くなった。シエルもクロイツ家の保護下から離れた今、行動に移すなら今が一番のチャンスだと思う。年端のいかない少女に看破されてしまい、思わずびくりと身を震わせた。
 気がかりなのはシェリーの今後だ。父には深く関わらないこと、必要なら兄のナハトを頼ること。生活が落ち着いたら必ず手紙を出すことを約束した。それが妹と交わした最初で、最後の指切りだった。


***



 十二月の三回目の金曜日。その日がドレスの採寸を取りつけた日時である。
 この日は首都も祭りがあり、その騒ぎに乗じて女所帯は狙われることもあるため、貴隷の娘やメイドたちにはザームの屋敷へと移ってもらっていた。これなら最低限、何かあっても自身の身は守りきれるだろうと思う。
 いよいよザームに発つ頃合いになって、アインツが駄々をこねたというか、渋ったのを思い出す。小まわりの利くものなら扱えるのだと証明してみせたら、引き下がったけれども。思えば彼が居ない屋敷というのも久方ぶりだ。以前はそれが当たり前だったというのに、何だか不思議な気持ちになる。

「帰して良かったのか、シエル」
「本当に危ない時は、貴方が守ってくださるでしょう?」
「それは当然だが。……どうやら到着されたらしい」

 呼び鈴が鳴らされる音に、シエルはセスを連れて玄関に向かった。開けた先に居たのは瓜二つの顔立ちをした老紳士たち。双子の宮廷仕立て人である。
「ごきげんよう、シュトレン卿。お変わりないようで安心したわ」
「これはこれはシエル殿。相変わらず愛くるしいですなあ」
「いっそう瑞々しくなられて……じじどもは驚きましたぞ」

 少女の挨拶に対して返ってきたのは、揃って口々に調教師を褒め称えた言葉。その様子に小さく肩を竦めたセスは、彼女が難色を示した理由を思い知ることとなるのだ。一旦は腹を括ったとはいえ、さんざんに逃げてまわったシエルは「前に測ったのがあるでしょう」やら「ほら! 帳簿にも残っているじゃない」などとこぼしている。それを難なく捕まえた青年だったが、身体のサイズを測るだけの何をそんなにと思う。……つい、五分ほど前にそのような判断を下した自分を激しく後悔した。
 セスがソファーに腰を落ち着けるのを合図に、採寸は始められる。無言で抵抗しているシエルのスカートが、するするとたくし上げられた。それに合わせて皺だらけの指が、滑らかな肌に、柔らかそうな太腿をたどる。

「カイン殿は調教師も青ざめるほどでございますからなあ」
「そのご子息も無論とは思いますが。脚はやはり四エレほどでございます、兄上」

 形のいい尻を撫でてはその形づくりや感度の良さを褒めちぎった紳士たち。まるで一度味わったかのような口ぶりが気にかかる。眉間に皺を寄せているあいだにも、革製のコルセットが外されていく。育ちはじめてきた時から整えていたのだろうか、小さくとも張りのある双乳。つんと上向いた乳首は赤く熟れ、外気に触れてひくりと震える。その採寸風景に、男の視線は釘付けになった。
 眼前で割り開かれるシエルの脚線をたどりあげ、その奥にある無毛の恥丘や狭い秘孔の具合いを想像してしまう。ふるっと肌が戦慄《わなな》くのを視覚で感じ取ると、彼女がいかに羞恥を感じているのかも理解してしまった。
 こんなの、あの男と同罪じゃないか。
 急速に冷える脳内とは裏腹に身体だけは異常に昂ってくのを再確認する。嬌声にも似た声が小さく響くたび、初めて見た彼女の淫らな姿が脳裏をよぎった。陽射しを受けながら揺れる小さな裸体、熟れて美味そうな蜜を垂らす恥部。それらが一気にフラッシュバックして、たまらずにぞわりと大きく背筋が震えた。

「……はー……」

 気づけばセスはずるずると背凭れに身体を預けていた。しばしの沈黙のあと、ようやくひとつだけ長い息を吐き出したのだ。煩悩を振り払っているうちに、採寸作業を終えたシエルはそそくさと着替える。キュッと締められたコルセット姿で現れた彼女の姿に、青年は大いに安堵した。

「ね、ね、セス様。せっかくだしお祭り行きましょうよ。今日は非番でしょう?」
「それは構わないが……別に何があるわけでも無いだろう?」
「稀には良いじゃない。息苦しくてたまらないの」

 十二月三週目の金曜日といえば、レムギアのどこも――特に農村地帯は降魔祭という祭りで賑わっている。祭りなどと言えば聞こえは良いが、実質は大人たちの夜の営みに貢献するための口実で、閉鎖的な土地柄の変わった風習に近いものがある。祭りなどと呼べるほどの催し物があるわけでも無いが、外の空気を吸いたそうにしているのは確かだった。
 シエルは慣習にならって黒のローブと仮面を用意してきた。妻帯の有無などを一目で判断できるよう、それを示すための刺繍がところどころ飾っている。二人はローブを羽織ると、仮面で表情を覆って街へと繰り出した。

「何故あの男との結婚を渋る。好きなのだろう」

 お互いに色恋の話しを好むわけではないが、稀には話題になったりもする。結婚が絡むとことさらに口を噤んだものだったが、伯爵が何かしらの企てを実行する懸念がある以上、それは必然的に避けられないものとなる。
 酒で酔ったユニアに「お前に愛される女とはどんな娘なのだろうな? 私としては非常に興味深いぞ」と芝居がかった口調で質問責めをされたの思い出す。その時も「お前の妹だ」と素直に言えず、きっと今でも同じだろうとは思うが。

「単純に言えば好きよ。私たちに良くしてくださったし……貴方に似てるから、とかそんな理由もあったけれど。あくまでおじ様は親みたいな感じだし」

 普通の娘は父親と寝たりなどしない。この淫乱。
 そうなじってやるべきか。けれど、彼女がクロイツ家で過ごした時間というのはそれであったゆえに異質なものかもしれない。そこまで考え至ると、罵る言葉さえ躊躇らってしまう。

「それに私、好きな方が居るの。今度ドレスを仕立ててくださるそうで、今日がその採寸日だったのだけれどね」

 ぼそりと告げられた言葉。無防備な喉元に鋭利なナイフでも突きつけられたかのように息が詰まった。その一言に不覚にも男の鼓動は跳ねている。

「お前が、僕を……? そんな、はず。お前のことは嫌いじゃないが」
「本当? 嬉しい」

 捻くれた言い方になってしまったが、それであっても嬉しそうな声音が返ってきた。真偽を確かめようと、シエルは仮面越しにセスの表情を覗き込んでくる。そんな様子に、落ち着けるようぽんと頭を撫でてやる。

「あの男に気があるのではと考えただけで腸が煮える。だが……だが、あの男には確かな力がある。お前がそれを選ぶなら、邪魔はできない。ずっと、そう思っていた」
「いつだって貴方の傍に居る方法を探していたわ。大人になればそれが叶う、そう信じていたこともあった。なかなかどうして、上手くいかないものね?」

 真意をこぼしあうと互いに失笑のようなものを浮かべたが、次第に小さな笑いへと変わっていく。想うところも、行きたい先も同じだと言うのに、どうしてこうも遠回りをしてしまっているのだろう――と。
 人気の無い路地に入ると、セスは仮面を外す。そしてシエルから仮面を奪うと、それはカランと音をたてて石畳を打つ。言葉にしてみたら、燻っていた感情が一気に燃え広がっていくのを感じた。気づけば呼吸を奪うように口づけていたではないか。
 舌を伸ばして深くまで探る。乱れてく息遣いだけがいやに耳につく。寝静まったかのように静かな街に、二人だけ置き去りにされたように錯覚する。けれど、それでも良いなどと思ってしまう。

「僕の傍に居ろ。いいな、シエル。何か、似合いそうな目印でもあつらえてやる」
「ちょっと。私は動物じゃないのよ、もう……」

 口角を上げたセスはどことなく不敵な笑みを浮かべた。あのドレスに似合いそうなもの、首飾りの類いなら自然に見えるだろうか。アンクレットやブレスレットでも良さそうだが……。
 あれこれ思案していると、自然と足は屋敷のある一等地へと向いた。そろそろシエルを帰してやらないと、さすがに心配するだろう。誰がとは言わないが、彼女はあれでいて妹が可愛いのだ。
 しかし、この時の二人は知らなかったのだ。あとの運命が激流であることを、微塵にも感じなかったからだ。


***




 屋敷に近づくにつれて、空気中の元素たちが静かになる。普段はもっと活気があるというか、ここまで静かだと逆に違和感を覚えてしまう。それは魔術師の特殊な感覚のようで、隣りを歩くセスの様子を見ても何ともなさそうだった。
 人の気配がないのは元より、防護の魔術や拘束の魔術も作動していない。外部からの侵入者は無さそうだ。しかし、こうして家主であるシエルから発動の指示を受けても動作しないのは明らかな異常だ。扉を開け放った瞬間、迷わず彼が先陣を切った。不気味なほどに静まり返った玄関ホール、廊下、あらゆる部屋を見てまわる。最後にたどりついたのは隠し扉の先――書斎として使っている部屋だった。

「……セス様」
「ああ。何かあったのかもしれない」

 部屋が荒れた形跡が見られないことを踏まえると物盗りではなさそうだ。こまめなメイド頭が出迎えないのも、普段から可愛がっている小間使いが顔を見せないのも当然だが……。
 込み上げてくる言いしれない不安を伝えるように、大きな手をシエルは握る。それに応えてもらうとほんの少しだけ安心して少しだけ表情が緩んだ。

「シエル……シエル! 良かった、間に合ったんだ……僕」
「良かった……! 無事で居たのね、カノン。何があったの?」
「何かあったどころじゃ――少佐殿、早くこの場を。時間は僕が稼ぎます、だから……」

 人影が見えた。そう思ったのは相手も同じようで、切羽詰まった様子で駆け寄ってくる。シエルがローブを脱ぎ捨てると、そこに居るのはカノンだと分かった。
 再会したのもほんの束の間、緊迫した面持ちで退避を促される。ザームの屋敷もセスの私邸も押さえられてしまった。そのうえカイン伯爵からの刺客がこの屋敷まで迫っていると。それ以上の言葉を遮ったのは強い突風が吹き抜けていったからだ。

「そこまでだ、カノン。いや――ヴァンベルグ准尉」

 咎める声はどこか硬く諫めるようにも感じられた。カツ、カツとその声の主は静かに迷いなく歩を進める。三人のシルエットが目に留まる距離で歩みを止め、彼女は込み上げる感情を抑えるように深く息を吐いた。
 それがカイン伯爵の狙うとおりだと理解していてもだ。憲兵である人間が生存する手段はひとつ。目の前の間者を始末することである。

「姉上! くそ、邪魔はさせない……! あの男の、あの男の思惑どおりにしてたまるか!」
「あまり私情を持ち込むな。過ぎた情は死を招くぞ」

 カノンは手早く先へ進むよう示唆すると、ユニアの足を止めるために前に出た。
 邪魔はさせない――その言葉どおり女の足止めをするために。無駄な問答もなく元素をより集めて互いに武器を構える。それは両者の主張が相容れないものであり、相手に歩み寄る気など毛頭ないことを示していた。慎重に呼吸を読み合い、何度も距離を詰めては離すのを繰り返している。

「彼女を連れて、早くッ」
「私を相手によそを見る余裕か。いい加減に聞き分けないか、准尉!」

 一合、二合と打ち合い続けてもなお、その実力は拮抗する。魔力の余波を受けて起こった旋風が窓ガラスを粉々に砕いた。気をそらした少年の攻め手は呆気なく女の一閃で突き崩されてしまう。動きの速さ、的確さ。どれも物語っているのは圧倒的な経験差であった。

「カノン! くっ……行くぞ、シエル」
「でもっ」
「頼む、シエル。僕に――僕にカノンの気持ちを無駄にさせないでくれ」
「……分かったわ……」

 セスに腕を引かれたシエルは屋敷からの脱出を目指す。隠し通路や扉を駆使して接合しているホールへと抜け目的の扉を開け放った。
 屋敷の外に停留していたのは二頭立ての馬車。そこから一人、誰かが降りてくる。白粉白粉白粉や香水の匂いをさせたその人物は、二人の影を視界に収めてローブと仮面を脱ぎ捨てた。中肉中背とは無縁な絞れた身体。とてもその年齢には見えない壮年は、口元に蓄えた髭を撫でながらとっさに匿われた少女の姿を目ざとく見つけたのだった。

「鼠駆除ご苦労、少佐殿。……さて、シエル殿には大至急こちらにサインしていただきたい」

 カイン伯爵から差し出されたのは一枚の契約書。それはシエルのよく見知ったもので、どんなインクを使っても文字の色が変わる特別なものだ。心から承服していれば青色の文字を、拒絶すれば赤い色を浮かべる。
 貴族同士の婚姻や、貴隷の主従契約などと言った一級の契約を交わすときに用いられるものだ。これが一度とおってしまうと厄介で、解消には最低でも三ヶ月は要する。所有者としてすでにカイン伯爵の名前が綴ってあり、あとは貴隷のサインを待つだけのようだ。

「歯向かえばお前の片割れは死ぬぞ? どうするかね、シエル」
「…………もう少し、考えてくださったら嬉しかったわ。伯爵様」
「この前に老いぼれると言ったであろう? 私も余生の娯楽は欲しいものでな」

 シエルは護身として持ち歩いている銀筒を抜き払い、カイン伯爵に向かって蒼白いナイフを突きつける。悠然と構えた紳士の胸ぐらを思いきり掴んだにもかかわらず、動じる気配すらない。むしろ、それを楽しんでいるかのように口端を歪ませた。
 この壮年の紳士が危険なのは薄々だが理解はしていた。どれだけ歩み寄れたとしても、決して分かり合うことは無いのだろうとも。兄や姉に剣を執らせたことも、屋敷のメイドや貴隷の娘たちといった無関係な人間まで巻き込んだことにも立腹している。だが、ここまで目的も手段も選ばないとは――完全に見誤っていたのかもしれない。

「相変わらずいじらしいくらいよ。……今度は他に何を望むかね」
「憲兵も居るのでしょう? なら別の契約書を用意して。伯爵様がそこにサインをくださったら、私もサインするわ」

 紳士の手元には魔導書が二器あった。片方は見たことのない小瓶の姿をしていて、それよりも目に見えて厄介なのは禁書のほうである。書斎にあった資料で見たこの魔導書は『氷棺の女王』と呼ばれていて、氷の女王を召喚するためのものだ。
 元素にも王に近しい存在がいる。彼は一瞬でもそれを喚び起こし、局地的に天変地異を起こすつもりでいるのだろうか? 扱いに成功しても周囲は氷雪で閉ざされるが、失敗したらそれこそレムギア全体が凍土になってしまうような代物だ。
 禁書や古書として扱われる魔導書は世間的にタブーとして扱われている。触媒の扱いの難しさもあるが、非人道的な使い方をされるなど理由は至ってさまざま。共通して言えることといえば、術者にかかる負担が大きく消耗が著しいものが挙げられるだろう。

「ずいぶんと勇ましいな。いいだろう、造作も無いことだ」

 目当ての少女さえ手に入れば、文字どおりに他はどうでもいいのだろう。人質の解放からはじまり、あらゆる予防線を張っていくつも約束させたが、憎らしいほどにカイン伯爵は一度で成功してみせた。壮年の男に促されて、約束どおりにシエルも筆を落とす。だが、拒絶の赤い文字が続いた。
 心の内では焦りを隠せない。このサインを成功させなければ、今よりなお無関係な人間を巻き込んでしまう。いくら父親の遺した理論を模倣した結界で守ってあるとはいえ、どこまで耐えられるものかも分からない。赤い文字が浮かぶたび、彼女の心の底はちりちりと灼けてく。

「さて、少佐殿にはこちらにサインしていただこうか。手間取らせれば――分かるかね」
「どこまでも周りくどい男だ」
「用意がいいと言って欲しいものだね。情けで動くほど無駄なこともあるまい」

 触媒が充分に満ちたのだろう、手元で魔導書が共振する。シエルにサインをさせることが最大の目的だというのに、他に何を望むというのだろうか?
 壮年が息子に対して見せたのは別の契約書である。そこに記載された文面を理解するや、セスは吐き気さえ催した。本気で彼女を飼い殺しにしようとしているのが見て取れたからだ。

「正気とは思えん」
「何とでも言いたまえ。あれは私の胎なのでな」

 レムギアでは私財の拡充を目的とした決闘は禁じられている。しかし、その私財が妻や貴隷といった場合のみ特例として認められているのだ。それを見越してのことだろう、カイン伯爵が求めてきたのは自身の生死にかかわらず息子であるセスに権利を放棄させる契約だった。
 彼女が――シエルがこの契約に価値を見出さないかぎり、了承のサインなど出るはずも無い。そう、心のどこかでタカを括っていたのかもしれない。三度目の筆を落として青い文字を浮かべたのと同時に勝ち誇ったかのような笑い声が響く。

「はは、本当に承服するとは……管理局は驚愕するでしょうなあ。令嬢が、自らの意思で私の貴隷になったのだから」
「なん、だと……? そんなはずが――貴様、彼女に何を」

 慌ててシエルの元に駆け寄ると今にも膝から崩れそうだ。その足下には下着が意味をなさないほどの蜜がしたたり落ちていて、瞳の焦点はどこか合わずに虚空でも見ているようである。ぼそぼそと何やら言葉にならない言葉を発している。何を言っているのか耳をそばだてようとしたが、すっと身を離されてしまった。

「さて、帰ろうかね。シエル」
「……ええ。またね、お兄さま」

 驚くほど不気味に優しく促されて、シエルはたどたどしく言葉を紡いで手を小さく振る。まるで幼子のような仕草に、セスははっとなって顔をあげた。
 クロイツ家も魔術師の血族だ。一般的に広く普及している術式以外にも、それこそ代々口伝で伝えられてきたような術というのも確かに存在する。そのなかで最もカイン伯爵が得意としているのが、他者の精神を拘束して意のままに使役するものだ。
 それを使って彼女を操っているのだとしたら? 仮定でしかないが可能性としては有り得る。だが、シエルとて同じ魔術師――何かしらの対抗手段を講じているだろう。

「……必ず助けに行く。だから待っていろ、いいな。シエル」

 その言葉が届いたのかは分からない。けれど、小さく身体が揺れた気がした。二人は反対方向へと歩き出す。今後の方針を手早く固めると、セスは単身でザームへ向かうべく馬の手綱を引いたのだった。
 きっと、使用人たちは待っている。どんな形であれ彼女が無事であるという報せを――。



 先の三年戦争のおり、この田園都市はたった一人の密偵によって攻略された。新たに領主に選ばれたヴェーデ卿は悪政を敷いていて、結託した領民たちにより惨たらしい最期を迎えた。これにはさまざまな憶測もあるが、結局は彼の人となりが原因で陥落したようなものだ。
 次の領主にはヴァンベルグ家からとの声が多く、姉弟たちの復権を望む声が多かった。そんなふうに暖かな人々に囲まれて、彼女が幼い頃を過ごしていた場所。そこに許可なく踏み入るのは気が引けたが、彼は歩みを止めることはなかった。

「クロイツ様! シエル……シエル様は」
「貴隷として伯爵の傍にいる。――済まない」
「いつもあの方は貴方様だけを待っていたのに……どうして」

 駆け寄ってきたアインツとメイド頭のサラは怒りと哀しみの色を隠さなかった。幼い顔立ちをくしゃくしゃに歪めて泣き崩れる。彼らは自分たちが手酷い扱いを受けるよりも、優しい女主人にそのような決断をさせてしまったことが耐えられないようだった。

「確か……サラと言ったか。僕が書斎に立ち入っても大丈夫か?」
「はい。何かありましたら、お支えするように言いつけられています。どうぞ、わたくしどもを存分にお使いくださいませ」
「…………感謝する」

 カイン伯爵は情で動くことを嫌うが、人間を動かすのは情だと身につまされた。セスは使用人たちに協力を仰ぎ、書斎の資料や魔導書を片っ端からあさりはじめる。
 軽食を口にしながら資料探し。それから法務院への手続き。忙しく動いているとザームに来て三度目の夜が訪れて、気づけば眩しい朝陽が昇っていた。