第二章 花食みの影




 少しだけうとうとと微睡んで、気づけばもうじき夜会の時間が訪れていた。引きこもっていてはメイドたちに心配をかけると思い、シエルは支度をはじめた。少しだけ顔を出すぶんには大丈夫だろうと踏んでのことだ。馬車から降りると懐中時計を見せる。今日も滞りなく会場へ通された様子に、朝の報せが嘘のようだ。そこで話題になっていたのは亡くなった老女・カエラのことで、淑女たちからも広く愛されるセンスの持ち主だったのだと知る。

「ここは貴方のような小さな子には早い場所よ。お付きの方はどうしたの?」
「あ……ええと。その、ごめんなさい。ぼく、はぐれてしまったみたいで……うう」

 何気なくかけた声にしゅんと縮こまったのは、やっと十五歳になったくらいの少年だった。中性的な面差しのせいか、どことなく頼りなさげに感じてしまう。けれども隠しきれない品性や知性のようなものが漂っていて、正直このような場には不釣り合いだ。良くも悪くも目立っていて、だからシエルは声をかけたのだけれど。そのへんの淑女に捕まるよりは、まだ優しいだろうなどとは自負が過ぎるだろうか。

「これだけ人が集まるのも稀だもの、慣れないなら仕方がないわね。……ほら、行きましょ」
「あ……はい……」

 少年の腕を取り、ひとまず近くのバルコニーへ出た。根掘り葉掘りするでもなく、ささやかな会話を楽しむ。まだ年若いというのに博学で、かと言ってそれをひけらかすこともない。適度に夜風にあたると、今度は比較的に安全な会場の外へ出る。すると彼の付き人だろうか、初老の執事が慌てて駆け寄ってきたではないか。

「ごめんなさい、シエル。迎えがきてしまいました」
「気にしないで。今度ははぐれたら駄目よ」
「……気をつけます」

 もう少しだけ話していたかったが、次の約束は取りつけなかった。彼はまだ子供だ、大人の付き合いをするには少し早い。それを考えれば妥当だろうと思う。手を振って見送ると、その日はシエルも帰路につくことにした。

「シエル様、お帰りなさい。今日はお早いお戻りでしたね」
「アインツ。ええ、ただいま……まだ起きていたの? きちんと寝ないと大きくなれないわよ」

 出迎えてくれたのは小間使いの少年で、数冊の本を手に二階から下りてきたところだったようだった。これから片付けに行くところなのだろうか。それに関して訊ねるとアインツは「はい、そうです」と答えて執務室のドアを開けてくれた。
 部屋に入りかけたシエルは思い出したかのように抱えられた本を取り「私が戻しておくわね」と言ってドアを閉めた。彼が読んでいたのは読み書きの本と、簡単な魔術を記した本だ。どちらも子供が読むような内容だが、懐かしくなったシエルは夢中になって読みふけった。

「やっぱり名前くらい訊ねておけば良かったかしら……」

 気づけばとうに日付が変わっていて、本を閉じて片付けた少女は大慌てでベッドにもぐり込んだ。小さく呟いてはごろんと寝返りをうつ。思い出したのは夜会で出会った少年のことだった。もう会うことも無いだろうし、それを考えると訊かなくて正解なのだが、なんだか引っかかる。あそこまで純粋に深い知識のやり取りは滅多にできない。それを思うと、なんだか非常に惜しいことをした気がするのだ。連日と夜会に顔を出してみたが、あの夜の彼を見つけることは無かった。
 近衛の衛士を捕まえて訊ねてみたけれど、誰に訊ねても子供の姿は見なかったと言う。こうまで手がかりが掴めないと、まるで出会ったこと自体が夢か何かのように感じてしまう。少年を探すのを諦めたシエルは早々と会場をあとにすれば、屋敷に帰ってくるなり生家の書斎から運んできてそのままにしておいた本を読みはじめる。

「サラさん。シエル様、なんだかまた難しいご本を読んでらっしゃいますね」
「珍しいですね。あまり勉学は好まれないのに……どうされたのでしょうか」

 メイドと小間使いは揃って不思議そうに首を傾げた。ここのところの女主人は、難解な理論書を読んでいるか、見慣れない魔術を試しているかのどちらかだ。
 あれから一週間ほどが経った社交界。今日も贅沢な食事が並び、どこからともなく自身の所有する貴隷の自慢がはじまる。調教師の少女が久しぶりに顔を見せると、そこにはあの時の少年がいたではないか。

「……あ! シエル。どうしても会いたくて今夜は無理を言ってきました、その……ごめんなさい」
「わざわざお付きの方と来てくれたの? ありがとう。少し風にあたりましょ」

 夜風にあたろうとしてバルコニーに出てみたが、今夜は少しばかり熱気がある気がする。そこで話題になったのはアドラーの定理と、父が打ち立てた魔術理論についてだった。簡単に実践しながら話してみるのだが、やはり彼の知識には驚かされる。一般的な教養として普及しているものから、魔術師であってもなかなか注目しないことまで幅広く知っている。まるで少年王みたい、と呟くと彼は一瞬だけ驚いた表情を見せた。知識の深さならきっと、彼はこの国の王とだって対等に渡り合えそうな気がするのだ。

「…………。ぼくが、その少年王だとしたら……シエル、貴女はどうしますか」
「どうって……。少なくとも、私にとっては何も変わらないわね。たとえ王様と言われていても読書が好きな男の子に変わりがなくて、なんだか安心したくらいよ」
「周りのみなが、貴女みたいなひとだったら良いのに」
「それは難しい話しよ。復権の話しも嬉しかったけれど、私に決定権は無いの。……ごめんなさい」

 国の王から直接に打診されるなど名誉なことだと理解している。けれども、シエル自身に一切の決定権が無いのは事実だ。それは家督の座がカノンに移っても同じことだろうと思うし、むしろそうなったら他家へ嫁ぐどころか、徹底的に領地へ封じられそうな気がする。
 選択肢が増えれば増えるほど、日頃から感じている以上に今の生活が気に入っていることに気づく。本当なら復権するべきなのだろうが、そうなると余計に面倒なことになりかねないと言うべきか……。第一に古株たちが内心でいい顔をしないだろうと思ってしまう。

「……あ……。ぼく、もう行かないと……」
「楽しい時間って本当にあっという間なのね。途中まで送るわ」

 また迷子になったら困るでしょう? などとそれらしく続けると、彼は嬉しそうに、でもどこか寂しそうに微笑んだ。会場を出れば少年を乗せた馬車が出ていくまで見送る。それが済む別の馬車を捕まえて、屋敷へと向かうのだった。

「……ただいま」
「お帰りなさいませ。なんだか表情がお暗いですが……あ、シエル様! 行ってしまいましたか」

 出迎えてくれたメイドを振りきると、一人になれる部屋でシエルは膝を抱えた。あんな年若い子供に国を任せるより他がないなどと、なんと残酷なのだろう。それが王族の血筋に課せられた務めだとしてもである。いくら自分に決定権が無いと言っても、結局のところ考えたのは保身だ。肝心な時に嘘のひとつでも並べることができない――そんな自分が許せなかった。あの小さな肩に並ぶこともなく、ただ、何も変わらないと言ってやることしかできなかった。

「政治なんて、どう考えても私には向かないし……。適材適所よね……これも」

 言い聞かせみるが、心の底にどろりとした何かが溜まってく。復権だなんていまさらだ。そんなことなら、どうして姉はあの時に権利のすべてを手放したと言うのだ。年月とともに情勢が変わっていくのは分かる。だが、治世者が欲しいのは父が遺した魔術理論だ。あれが正しく機能すれば、魔術に対しては手堅い守りを得ることができるだろうし――考えれば考えるほど、復権を断るのが妥当だと考え至ってしまう。

「……もう寝ましょ」

 家がどうであれ、今となってはこの屋敷を守るだけで精一杯なのだ。そんな自分に伯爵の地位を名乗るなど分不相応である。感情だけではどうにもならない、どうにもできないのだから。いい方向に物事を考えることができない。思考を切り上げるとシエルはベッドに身を投げた。ぼすんっと重みで沈んで、そのまま意識が持ちあがることは無かった。



「申し訳ございません――様。シエル様はまだ」
「問題ない。急に訪ねるのも気が引けたが、少し……なものでな」

 屋敷がバタバタと慌ただしい。もうそんな時間か、と思いながらも身体は思うように動いてくれなかった。頭がやけに重たく、まるで熱でもあるみたいだ。声を出したが小さな唸りにしかならず、ぼうっとした思考でなんとか考えようとする。規則正しくノックされるドアに、ふらふらと立ち上がったシエルはどうにかこうにかメイドたちを招き入れた。その瞬間、安心したのかぽてっと力なく倒れ込んでしまう。

「大丈夫か? いや……何も言うな、聞いていればそれで構わない」

 目線だけで姿を追う。カーテンを閉めた彼はベッドの傍に置かれた椅子に落ちついていた。大きな手が何度か髪を梳って静かに離れていく。本当なら身を起こすべきと分かっているが、例にもよって下着姿なのだ。とてもお見せできない。じぃっと目線だけで訴えると、何も言うなと釘を刺された。

「ヴァンベルグ家に復権の話しが出ているんだ。決めるのはお前たちだが、僕はあまり気乗りしない」
「……ん……」
「先代の影を重ねるのも分かる。だが、いい加減に自由になっても良いと思ってる」

 だから早く忘れろ――そう言った彼は重苦しそうに息を吐く。眉間に少しだけ皺が寄るのが本当に残念だ。腕だけ動かして、寄せられた眉間をさする。しばらく繰り返していると、なんだか涙があふれてきた。自分本位の行為なのに、それが当たり前のように受け入れてもらえるのが嬉しくて。ぎょっとした彼は「どこか痛むのか? 誰か呼ぶか?」などと大慌てだ。

「ここのところ少し、感情のやり場がなくて。思っていたよりもずっといっぱいだったみたい」
「そうか。もう落ち着いたのか?」
「大丈夫……だと思う」
「お前のそれは僕からすればアテにならないぞ。ほら、ゆっくり休め」

 うん、と絞り出したつもりだったが言葉になっていなかったようだ。重たくなった瞼を閉じると、溜まった疲れを消化するように再び眠りにつく。すぅすぅと小さな寝息が聞こえはじめると、青年は安堵したように席を立った。彼女が復権の話しをどこで聞いたのかは分からないが、政治を任されている老人たちの考えなど透けている。遺された魔術理論が欲しいだけだ。彼らが常日頃から腹の内で考えているのは、いつだって身を守るすべと何がしかの利益だけ――そこに大義もなにもありはしないのだから。

「おやすみ、シエル」

 小さく声をかけて、音をたてないように唇を寄せる。だが、それは少女に触れることなく寸前のところで離れていった。六年の年月でできた、この言葉にならない距離がもどかしい。たとえもどかしくとも、触れるわけにはいかないのだ。彼女がどう思っていようと、勝手を許される立場では無いのだから。あの頃みたいに――。ふとそう思った男であったが、いまさらだと乾いた笑みを浮かべた。
 今から十年近くも昔に、ヴァンベルグ家は貴族としてのすべてを手放した。それが再び取り沙汰されるなど、どういう了見なのだろう? 正確な狙いが分からない以上やたらと動くわけにもいかず、まるで苦虫を噛んだような気持ちになった。