第七幕 妄執 ~闘う近衛たち~
心虚ろなシエルが連れて行かれたのは、懐かしい造りをした屋敷だった。四年間クロイツ父子たちと過ごした場所だ。そう思うと変わり映えしない佇まいもなんだか感慨深いものがあった。
わきあがった感傷のような感情に浸る間もなく、少女の身体は性急に割り開かれる。両脚を大きく開いて折りたたみ自ら恥裂を、さらにその奥にある窄まりを十本の細指で広げて見せることを余儀なくされた。
「実に堪らん表情だ。私に礼を尽くすのがそんなに不服かね」
両方の親指を支えにして恥丘に添わせ、人差し指と中指で濡れてもいない秘肉を広げる。カイン伯爵の視線がそちらへ向くと、期待するかのように湿りはじめた。
視線で舐められ続けていれば、熟れた淫芽の皮が剥け、それでいて気恥ずかしそうに震える。この上ない羞恥に染まりながらも、シエルは肉の奥まで見せる格好を強いられる。それは貴隷が主人や客人に尽くす礼のなかでも最高の礼――その名のとおり『最上の礼』と呼ばれる行為だ。
「……は、ん……ッ」
「ふむ、奥の壷が降りて来んな。しかし、なかなかどうして良い具合いだ。倅がのめるのも頷ける」
ぐちりぐちりと降りてもいない子宮を押し上げてくる。まるでその重みを確かめるよう繰り返される動きに、たまらずシエルは表情を顰めた。その肉で掻きまわされないだけまだマシか。そう思ってはいるが、身体はじくじくと焦がれてく。
愛蜜は粘り気が増していき、追い立てるように奥を掻いては一点を突き上げた。節くれだった指が抜き差しされるたび、必死になって声を噛み殺す。そのたびカイン伯爵はあの手この手と淫猥な手を尽くしてくるのだ。
コリコリと乳首を摘みあげられ、その反対側を口に含まれる。男が何か言葉を発するたびに細かい振動が伝わってくる。しつこく吸いつかれながら追い立てられ、抵抗も虚しく肉体的な限界を迎えてしまう。
「……どれ。そろそろ良い頃合いか」
「ふあぁああああ! ん、ふ……っ」
とろとろと蜜を垂らしながら果ててもなお、最上の礼は止められない。ひくりと脚を痙攣させながら抱えられ、やっと礼を止めさせられれば懐かしい肉椅子へと着席させられてしまう。コツンと子宮口に雁首が触れた瞬間、言い表しようのない恐怖を感じた。じわりと視界が滲む。
人を呼ぼうにも気配はあるのに誰もが気づいてくれない。不自然なその空間に、魔術で遮断された空間に閉じ込められているのだと気づき絶望した。かぶりを振るって抵抗しても、壮年には微々たるものだ。覆い被さる身体がびくりと震えて、カイン伯爵が満足したのだと理解したら子供のように泣きじゃくる。
言葉にならない感情は短い喘ぎに、吐息に変わる。過去と現在とがごちゃごちゃに溶けて混ざり合う。
混ざって混ざって残ったものだけが、彼女にとっての紛うことなき現実なのである。ローデに帰ってきたこの日から、カイン伯爵の貴隷としての生活が始まったのだ――。
あくる日の夜、少女は社交場にある化粧室にいた。薄く化粧を施され、それが終わったら今夜の趣向に合わせて顔の半分を仮面で覆う。榛色の髪を移ろわせながら、どこか覚束ない足取りで歩きだす。
少し前までカイン伯爵によって肉責めをされていた。今夜はその匂いを纏ったまま、貴族たちと踊ってみせなければならないのだ。こんな緩慢な責めなど仕置きのうちにも入らない。そう感じるほどには質の悪い責め抜き方をされたこともあった。
「さて、お集まりいただいた皆々様――私の貴隷、シエル=ヴァンベルグと踊りたい方はおりますかな」
以前は貴隷を連れてきていたこの場所に、こうして自分が連れて来られることになるとは。その現実が淡々とシエルの心を抉って止まない。同じように表情の半分を仮面で覆った紳士たちから手が挙がる。よく見れば好色な淑女からも。その事実がさらに少女の心を追い詰めた。
方々から下品な揶揄を受けては、立たない腰のまま踊り続ける。ステップを踏んだ途端、スカートの奥で太腿に白濁が伝い落ちるのを感じた。その感触にぞわりと肌が粟立ち、堪えようのない感情に咽いでしまいそうだ。
「そこまでだ。妹を返してもらおうか、魔剣士伯」
踊っていた貴族の腕に抱かれること四度目。その鼻先にも男の匂いが分かるのだと思ったら、ギリギリで保っている涙腺が決壊しそうになる。仮面の奥から覗く瞳に視線を絡めれば、それが合図だと言いたげに身体を離された。
甲高い音がキンッと響く。支えを失いその場にぺたりと座り込んでしまったシエルだったが、結界術の中に隔離されたのだと気づく。そのうえからさらに守りを固めるよう、先ほどまで踊っていた貴族たちが取り囲む。穏健な憲兵隊の中でも武闘派たちが集結したようだった。
「返す? はて、何のことやら。彼女は自ら望んだのですぞ、大尉殿」
「あくまでシラを切るか。ここまでくると清々しいくらいだな」
意思を持った風がうねり、壮年の動きを鈍らせる。レイピアを構えた麗人の動きは追い風もあってか素早い。風を味方につけたように漆黒の装束がはためく。その利き腕にはいつも留められているはずの腕章が無かった。
打ち合うことなく仕留めようとしているのだろうか。迷いの無い動きは的確にカイン伯爵を捉えはじめていた。それであっても壮年は切っ先が貫こうとする寸前でかわす。ギリギリまで攻撃を引きつけての行動は、身体への負担が一番少ない方法だ。
「……くっ! やはり私兵を伏せていたか」
「私はこれでも寛容なのでな。今なら不問にしてやらんこともない」
術者を守るように銀筒が爆ぜる。襲ってきたのは周囲を無差別に巻き込んだ魔術だった。しつこく追尾してくる刃を的確に中和していくが、それでも凌ぎきれずに彼女は大きく距離を置くことになる。
その位置さえも狙ったかのように別方向から飛んできた魔力の矢弾が着弾した。次から次へとひっきりなしに降り注ぐ魔術に、ユニアはあっけなく追い詰められてしまうのだ。
「追え。殺しても構わん」
「そうはいくかっての。……これ以上はアンタの好きにはさせねえよ」
撤退を余儀なくされた女を追おうとする私兵たちを留めたのは、たった一人の男だった。仮面を外せば、そこには翠と紅の瞳があって――どこからともなく現れた悪魔の姿に周囲はどよめく。
「魔王の右眼か。それで視るつもりかね? 私を」
「アンタの明日なんて分かったところでこれっぽっちも興味ねーよ。俺はただ信じてみたいだけさ、可能性ってヤツをな」
シエルと視線が合った男は飄々とおどけるだけにとどまらず、余裕がものを言ってかウィンクまで投げつけてみせる。言葉にできないがその仕草が恋しかったのだろう、気がつけば火がついたように泣いていたではないか。
「今度お兄ちゃんと会うときは、ぜーったいに花嫁衣装で待っててくれよ? じゃあな」
得体の知れない魔力の流れにカイン伯爵は眉間を寄せた。それは眼前の乱入者を発生源にしており、自身のテリトリーを侵蝕してくる。実に不愉快極まりない状況だ。
数年とんと現れないと思ったら、何かを聞きつけたかのようにふらりと現れる。そんなところに今は亡き盟友の影を見る。男が手を振りながら悠々と去って行った頃には、居合わせた誰も彼もが殺気を削がれていた。
ルブルムの郊外に蹄の音が並ぶ。会場を抜けたユニアは用意しておいた馬に乗り、首都を脱してどうにか落ち延びた。あの男を相手取ってシエルを、部下を、すべてを守って勝ちきれる保証など無かった。討ち死にする覚悟だってあった。けれども勇敢な六人の部下と、一人の乱入者はそんな彼女に力を貸したのだ。
「良かった、無事だったか」
「済まない……セス、ナハト殿も。その、心配をかけた。だが――だが、私は……」
花の蕾が綻んで咲いていくみたいに。少女から女になるなど当たり前のことだ。だが、あの時のシエルの目覚ましさには恐怖にも近い感情を感じてしまった。だから、言ってしまったのだ。
お前など、姉様の子ではない――と。芽吹きかけたその花を摘もうとした。傷つけるのも承知で。馬を降りたユニアはカンテラを灯し、セスとナハトを連れて区画の奥へと進んでく。
「父様、姉様……済まない。あの子を取り戻せなかった。どうして……どうして私では駄目なんだ! 私だって、あの父様の血が流れているのに」
言いようのない不条理さに引き絞られた声が無音の墓所に響く。秘められた彼女の想いにセスは何も言えず、ナハトもただ黙ってその背中を見ていた。
憔悴しきったユニアはそれきり俯く。あの子たちに、父母の想い出はひとつも無い。だが、自分にはそれがある。仕方がないこととはいえ、ずっと心のどこかにつかえていたのだ。
「ユニア、僕は今度こそ彼女を連れて逃げる。あの男の元から、いや……この国からだ」
「下準備はもうバッチリってな。意味なくフラフラしてた訳じゃないぞ、俺だって」
この国の誰が、いったいシエルを真の意味で愛してくれると言うのだ。誰かが彼女を棺桶じみたヴァンベルグの家から、この国から連れ出してくれたら。願ってはいたけれど、そんなの夢のまた夢だった。
今度こそ、と今さっきセスは言った。今度と言うからには以前があったと言うことになる。密やかな想いを知っている男二人による、単純な嬉しがらせなどでは決してない。どこか自慢げに話す、それでいて企んだ様子にユニアは思わずに目を丸くした。
「二人とも正気か? ……いや、そんなことは野暮だったな」
彼らが本気なのは言葉の端からも伝わってくる。相変わらず結束の固い様子に、ユニアは一転して苦い笑みを消した。無謀すぎると一蹴するなら簡単だ。それなら熟考してでも何かしらの手立てを講じるべきだろう。
「シエルが居るのはきっと僕が使っていた部屋だ。侵入経路はその反対側、地下通路をとおって薔薇小路へと抜ける算段になっている」
「……って言うと、対魔術師用の軟禁棟か。確かにあそこならどんなお転婆でも無理はできないが――でも、なあ? やっぱ親父のシュミ疑うぜ」
「だとしたら、だいぶ敷地の奥になるな。軟禁棟に行くのなら護身の銀筒と、あと何が必要だ? 可能な限り挙げてみてくれ」
持ち合わせている情報を出しあい、それぞれを丁寧に噛み砕いて確認する。動くなら情報の共有は必須であるが、こうしていると子供が企む秘密基地にいるみたいだ。いつ他人に知れるとも分からない、窮地だというのになぜだか心がはしゃいで仕方がない。
「おそらくお前も軍を追われるだろう。だからしばらくでもいい、身を伏せていてくれ」
「分かった。……ありがとう、セス。それにナハト兄様も」
あまりに嬉しそうに笑う親友に、視線をそれぞれそらした二人はくしゃりと髪をかいた。ずっと暖めてきた計画だったが、そこまで喜んでもらえるとは、どちらにとっても想定外だったからだ。
あの貴隷調教師が、カイン=クロイツ伯爵の貴隷になった。
その噂と事実は、またたく間に宮廷社交界へと広まった。帯刀を許されない宮廷で騒ぎを起こしたユニアは、反逆罪を着せられて軍を追われていたのだった。計画どおりに家財のすべてを手放してもらい、ひとまず身を伏せてもらうことになっている。
「どこもその話題で持ちきりですぞ。まったく困りましたな」
宰相の困り果てた声がする。気持ち程度の世間話を切りあげると、正装を纏ったセスは少年王と名高いアドラー三世への謁見を求めた。
荘厳な座が位置する謁見の間で、恭しく跪づく。やがてひとつの気配を感じると、面をあげるように促された。目線の先には中性的でいて穏やかな、それでいて凛々しささえ感じさせる少年が座している。
「クロイツ少佐、其方の働きには目を瞠はるものがあります。どうぞ、用向きを話してください」
「……は。家名と少佐の権限、相続権――すべてを放棄、あるいは特務少将殿に贈呈したい」
「よいのですか。クロイツ家の家督を継げるのは其方だけでは?」
「気遣いは痛みいる。しかし、そこまで気にされる必要はない。それらを放棄あるいは贈呈し……私は特務少将殿との決闘を所望する」
低く重たく発せられた一言に、場は水を打ったかのように静まり、それから思い出したかのように騒然となった。すぐさま印紙が用意され、ひと呼吸おいたセスは迷わず筆を落とす。そこには真っ青なサインが浮かび出た。
堅苦しい謁見を終えて、宮殿の庭を歩く。長椅子に座ってぼんやりと景色を眺めていると、その視界の端に翻って揺れるスカートが映った。きょろきょろと首を巡らせる姿は、誰かを探しているようにも見えなくもない。
「……迷ったのか?」
その歩幅、靴音の間隔には覚えがあった。彼女だ。そう思いながらも、まるで赤の他人のように声をかけた。貴隷であるシエルがここに居るということは、今頃カイン伯爵もサインをしたためているはずだ。
「広場で決闘があると。そのように伺いましたけれど」
「……そうか。耳が早いものだな」
少女が貴隷になってじきに一ヶ月が経とうとしている。気まぐれだった性質は多少なりとも落ちつきを見せたのか、淫らな雰囲気には凄みのようなものまで感じる。覗くようにチラリとでも視線を流せば、誰もが気をそらしてしまいそうだ。
帝国でも五指に入るほどの貴隷――。ふとそんな喩えが浮かび、考えを掻き消すようにセスは緩くかぶりを振った。
「将校様。どうかご武運を」
古い魔術言語が刻まれた銀筒を一本ずつ、合わせて三本ほど握らされた。それらはどれも青年のために用意したのだろう、表情は今にも泣きそうである。だからと言って気の利いた言葉を紡げるはずもなく。
「勝って戻る。……必ずだ」
ぽん、と雑に頭を撫でてやる。長椅子に彼女を座らせると、セスは己を叱咤するように背中を向けた。これ以上は離れがたくなってしまうと、内心では気が気でなかったのだ。
決闘が約束されたのは一月の三週目、火曜日。
寒空の下、広場には大勢の観客が集まった。この帝国で右に出るもの無しと謳われた男とその父親が、たった一人の貴隷を賭けて果たし合うのだ。市勢にとってこれほど傑作なものは無いだろう。剣帝に憧れる少年も、カイン伯爵に付き従う司書たちもこぞって集まった。
「打ち込んでこないなら私からいくぞ。――ほぉら!」
「……ッ! 相変わらず無茶苦茶な……」
「凌いでばかりでは私の首は落ちないぞ? そら、切っ先はこちらだよ」
精錬された剣の持ち手がまるで指揮棒でも振るうかのようだ。弧を描いてしなる鞭状の剣先が、あらぬ方向から不意を突くよう迫ってくる。払い落として受け流していたセスだったが、やはり普通の鋼材から作られる剣では耐えられるはずもなく――三度目の剣先を弾いた時にはバキンッと鈍い音をたてて貫かれてしまった。
左袖に仕込んだ銀筒を抜く。テュール。小さく呼びかければそれは応える。
銀筒に魔術を詰めるさい、元素と触媒の比率が重要になってくる。多すぎても少なくても駄目で、非常に繊細なのだ。その性質をあらわしたかのように、優美なシルエットをしたエストックが現れた。
淡く蒼白い光りをたたえた刃を軽く振り払う。たったそれだけの動作だが、武器としても秀作なのが分かった。握った感触も、重さも、どれをとっても手に馴染む。
「それは、なぜ貴様が……! 諦めの悪いものよ、帰ったら灸を据えねばならんようだな」
激昂にも似た壮年の声。屋敷では徹底的に情報統制をしている。だから、貴隷であるシエルはこの決闘の存在すら知らないはず。それをいつ、どこで?
魔剣士伯は剣を収めるようにその精錬形態を変えた。新たに出てきたのは直槍。飾りが一切なく、かえって無骨とも取れる意匠だ。それを構えると低く腰を落として間合いを取った。
繰り出されたのは素早い突き。一直線の軌道を読むのは簡単ではある。その俊敏さと言ったらとても五十代とは思えない。とはいえ必ず隙は生まれる。それを見出そうとするあまり、剣を構えながらも今一歩が踏み込めない。薙ぎ払われた衝撃と勢いに耐えきれなかったセスは、こともあろうか刃を手放してしまう。
「しま……っ! くっ――痛み分けだッ」
とっさに腰に仕込んだ銀筒を起動させる。高密度の触媒がカイン伯爵めがけて針状に飛んでいく。後退することでそれを凌ぎきった壮年は、足元に残った術の残骸に瞠目した。
この術はごくごく初歩的な、それこそ子供が扱うような児戯同然のもの。しかし足元にあるのは一般的な術系統とは異なる、魔術の触媒だけを集めて練ったものだ。それを扱える者は限られてきて、どう考えてもあの天才の系譜以外には成しえない芸当になる。
「どこまでも、どこまでも私のものにならないつもりか……! これなら抗いきれるかね、小僧ッ」
ピリッとした空気の、元素の震えを肌で感じる。いくら銀筒の補助があるとはいえ、よくもこれだけの大掛かりな術式を編むだけの気力や体力が残っているものだ。剣を拾いあげたセスは一気に距離を詰める。
間髪入れない判断でタンッと深く踏み込んで、互いをその射程に収めた。そのまま重みに任せて振り抜いたエストックが斬り捨てたのは、口惜しくも魔術の虚像だった。凍りついた影は粉々に砕け散っていく。術者はその奥に潜んでいる――勢いに任せて刃を突き立てようとしたが、それさえも本体が半歩ほど引いたことで空を斬る。
「悪くはない。だが……これで終いだ」
その言葉の示すところは故意に引き起こした魔術の暴走であった。一点に集まった力を調律するカイン伯爵が不在になったことで乱れだし、元素の塊が四方八方へと飛散する。
「どこまでも、どこまでも……貴様ァ!」
制御を失ったことで狙いは無差別になり観客たちをも巻き込んだ。そこかしこから上がる悲鳴に、セスは感情任せに薙ぎ払った。大振りな動きで壮年を仕留めるには至らず、混乱に乗じてその姿が消える。
青年はそのあとを追いかける訳にもいかない。居合わせた司書たちをかき集めたが、精巧すぎる魔術を前になすすべも無い。誰もが諦めかけたその時だった。
「ほほほ。なんぞ騒がしいと思ったらカインの坊主にも困ったものじゃて」
「老! いつの間にこちらへ」
壊滅寸前のこの場に現れたのは小柄な老人。ぱっと見たところ年齢は七十か八十に感じるが、実際それ以上なのだろうか? 長命で魔術に秀でたエルフの出身らしくぴょこりと尖った耳が印象的である。
「お前さんがあの坊主の倅かね。その銀筒をよく見せてみい」
「…………? これを、か?」
言われるままセスは残った銀筒を手渡す。それだけ使わなかった、いや正確には『使えなかった』ものになる。一体どんな術が込められているのか。
「これは……あの悪たれが遺した術かね。触媒だけを扱うなど当代きりと思っていたが、まさか使い手がおったとはなあ。驚いた」
老エルフは手の中でしばらく銀筒をもてあそび魔術の中心へと投げ入れた。すると、四方に散っていった魔力もろとも内側から解けていったではないか。
ただの元素と触媒に戻って、空気中へと霧散していく。光がまたたくように燃える。時間でも忘れたかのように場に居合わせた誰もが、その光景をじっと眺めていた。
ローデにたどりついたカイン伯爵は、シエルの部屋へと押しかけた。長く使われていなかった部屋だが、調度品ひとつ取っても彼女が好みそうなアンティークに誂えなおした。……それなのに。
止めるメイドたちをも斬って捨てんばかりの勢いに、少女は黙って手元の鈴を鳴らした。今夜は部屋に来て欲しい。壮年にだけ伝わる控えめな合図。心配そうにする使用人たちを鏡台から視線だけで見送ると、広い部屋に二人きりになった。
「なぜ私のものになることを良しとしない?」
「伯爵様の性質に問題があるからではないかしら」
シエルは怖じることなくしれっと言い放った。まるでその怒りに触れているようで、細められた瞳は睨めつけるようだ。なによりもその口ぶりに、今は亡き少女の母親の影を見る。
これは壮年がまだ年若かった時の話しだ。盟友の領地を見てまわっていたとき、偶然立ち寄った小さな村で生贄にされた少女を助けたことがある。痩せてほそり身体の肉を鴉につつかれた傷もあった。それであっても供物にされたことを嘆きもせず、恨み言のひとつも出てこなかった。
「なかなかどうして。そうしていると彼女に……母親に似てきたな」
「……えっ……」
双子を産んでそう経たずに流行病で亡くなった彼女。面立ちや立ち振る舞いひとつ。どれも少女の記憶には残っていない。若くして死んだ父親のことなど尚更だ。
父母の人柄をセスに教えてもらったが、魔術に天才的な男とそれを好いた物好きな女の子供。あれから色々と考えてみたが、そんな印象しかないのが現状である。
「それより倅に会ったな?」
「庭園でお会いしたわ」
「そのときに渡したな?」
「フェアでないもの、当然でしょう」
じりじりと距離が詰まる。殺したいのなら今すぐにでもそうすればいいのに。なのにこの男は、いつだって殺すという安楽だけは与えてくれなかった。
「お前のおかげで殺し損ねたじゃないか」
「あら、伯爵様でも年齢には勝てないようね? 安心したわ」
くっと上向かせられ、その瞳を覗かれる。暗い光を宿した翡翠からは、それ以外が窺えない。少女から吐き捨てられた無情とも取れる言葉に、カイン伯爵は深々と眉間に皺を寄せた。
年若い男を相手取って持久戦に持ち込むのは極めて不利だ。いかにこの紳士が鍛えていようとも限度がある。正攻法で勝つには男は老いすぎた。だからあのとき、彼女にまつわるすべてを放棄させたというのに……。
「あれは相当お前がいいらしい。どこの娘の肉を知ればああなる?」
「女の私には存じあげないことね。それより聞かせてくださらない? 私の父様と母様が出会った頃のお話しとか」
「私を寝かせないつもりかね。――良いだろう」
キングサイズのベッドに二人で身を沈める。サイドの小さな灯りだけが薄ぼんやりとカイン伯爵の横顔を照らす。彼の口から語られたのは、今の落ちついた佇まいからはとても想像のつかない冒険譚であった。
父とは魔術の同門で、大人げなく子供じみたイタズラを仕掛けるのを叱りつけるのが日課のようなものだった。広いキーリカ領を一緒に見てまわっていて、そのときに偶然に年頃の娘を――母を助けたこと。未開の森の近くにある監視小屋が当時は拠点のようなもので、三人揃ってそこに住み込んで居たようなものだった。
他にも昔はもっと剣の腕が冴えたとか、言い寄ってきた貴婦人を抱かなかった夜は無いだとか。今はもう身体が追いつかないが、あの頃は上位魔術だって扱えた。
ただひとつ、どうにも子宝にだけは恵まれなかった。そう洩らした壮年の表情を知ることはできないが、どこか苦しげに吐き出されたもののように感じられた。
「……でも」
「今日は眠ろう。夜更かしはさすがに堪えるものだな」
「ええ……おやすみなさい」
ナハト様とセス様がいるでしょう? 言いかけた言葉をシエルは飲み込んだ。
彼女が知る限りで、カイン伯爵は一度だって二人の息子を名前で呼んだことがない。そこからいくら親子だ血縁だと言っても、彼らに対する情が薄いのだと思い知らされた。向けられた広い背中を何度か撫でてやれば、それは驚いたようにびくりと震えた。そのあと彼が眠ったのかを知ることはできなかったが、朝になってシエルが目を覚ますと隣りにはその姿が見当たらなかったのだ。