終幕 ささやかな幸福




 ジー……ジジッ。
 そこかしこから虫の羽音が聴こえる。夏草の匂いがむわりと広がる蒸した夜だが、じきにそれも終わり涼しい秋がくる。月の光を浴びながら、男二人は木製のジョッキを打ちつけあい静かに祝杯をあげた。
 シエルと出会ってから、こうして連れ出すまで。
 長かった。あの悪夢を避けるべく、あの手この手と策を凝らした。必要なら彼女たちに苦しい思いだってさせてきた。その結果が近くに日の目を見るのだ。ナハトにとってこれほど嬉しいことはない。

「なんだ、兄さん。だらしないぞ」
「お前もひでー顔してるぜ? しかしあの伯爵相手に取引とは、シエルもとんでもない胆力だな」

 じゃ、先に寝るわ。そう言い残した兄は、弟にジョッキを押しつける。ナハトは自身が持つ異能の代償か、睡眠らしい睡眠も摂れない。だが、なんであっても心配はかけたくないものだ。
 ジョッキを受け取ったセスは、そんな姿に肩を竦めながら残りを一気に飲み干した。そうして片付けるのもそこそこに、その夜はベッドにもぐり込んだのだった。


***



 掃除をしていたシエルは、ふと部屋の一角に飾られたドレスに視線を向ける。
 セスが仕立ててくれたものが完成し、レムギアからナハトが運び込んでくれたものだ。白を基調に青や金の刺繍が飾って目を惹く、シンプルながらに豪華な意匠のものである。
 とはいえ髪は短く切ってしまったし、もう夜会になど参加しないのだから持て余しているのが現状だ。そんな内情を知らない子供たちは、素直にドレスを着ているシエルに興味を持ったみたいだった。
 口々に「約束ね!」と一方的に取りつけては無邪気に喜ぶ様子に、彼女は根負けしたのである。すっかり短くなった髪を梳ったシエルは、久しぶりにドレスを着付けてみることにした。

「あの頃が嘘みたい。ずっと当たり前だったのに……なんだか不思議ね」

 ほんのりと薄く化粧を施して、ショーツを穿いてからペチコートを脱ぎ落とす。ガーターベルトで純白のタイツを留めるとキュッとコルセットを締め、パニエで幾重にも膨らませたスカートを形よく見えるよう整えた。
 揃いのパンプスを履き、姿見を覗く。純白で着飾るというのも慣れず、なんだか居心地悪く感じてしまう。そわそわとして落ち着かないものだ。

「わあ、先生ふわふわでかわいい!」
「お外行こうよ、お外!」
「お外に出るのは、さすがに恥ずかしいわ」
「やだー! 行こう、お外」

 我儘を言う小さな手たちが、シエルの手をしっかり握って離してくれない。これは外に出ないと気が済まないだろう。諦めたのが伝わったのか、そのまま外へと連れ出される。きゃっきゃと村中を練り歩き、やがて行き着いたのは村にある唯一の教会だった。

「ナハト兄ちゃーん! 連れて来たよお」
「お、チビたち。ちゃんとお姫様を連れてきてくれたんだな。偉いぞ」

 扉の前には、年季の入っている臙脂色のコートを羽織った、いつもの派手な様相のナハトがいる。子供たちを構ってやりながらも、手袋に包まれた手がシエルに伸ばされた。戸惑いながらもシエルが手を乗せると、それを合図に礼拝堂への道が開ける。
 周りを見れば近所のおばさん夫婦や子供たちの両親が参列客よろしく長椅子に座っている。――これでは完全に男の手のひらの上ではないか。

「秋の花嫁は豊穣の女神に祝福されるんだとさ。あの時、言っただろ? よく似合ってるよ」
「……ありがとう、兄さん。私、幸せ者だわ」
「そりゃあ何よりだ。……さ、セスのところまで一緒に行こうぜ」

 ヴァージンロードを父親よろしく歩くナハトは、心底嬉しそうで自慢げだ。周囲からやいやいと揶揄が飛び、照れくささから頬を染める花嫁だったが、ヴェール越しに花婿らしく礼装に身を包んだセスを見るなり破顔した。
 つつがなく式を終えて、交互にライスシャワーを浴びる。手にしていたブーケを投げれば、それは追い風を受けて高く舞い上がり、はらりと年頃の少女の手元に落ちた。
 色とりどりの花弁が秋風に乗って流れてく。それらをひとしきり見送ると、シエルは幸せそうな表情で薬指に光る指輪を見つめるのだった。



【完】