第三章 調教師の甘言




 そんな蜜事があったことなどつゆ知らず。規定のベレー帽をかぶった少年は、気配を殺したまま執務室のドアを開ける。気配を殺すのは昔からの癖で、それは片割れである妹も同じだ。部屋のなかから漂ってきたのは、濃い牡の匂い。まるで誇示するような強烈さに眉を寄せると、込み上がってくる不快感を隠さずに問答無用で窓を開け放った。
 屋敷の主人である妹のシエルは、ソファーで丸くなってすやすやと寝息をたてている。よほど体力的に消耗したのだろう、彼女の、妹の下肢は乱れたままで、事後処理だってできていない。その様子に内心で唇を噛んだ彼は、あくまで兄としてその肩を揺すり起こしてやる。

「駄目じゃないか。こんな格好で寝てたら」
「あ……お帰り、カノン。ごめんね、あれから寝ちゃってたみたいで」

 足下に脱ぎ捨ててあるショーツが穿かれる。そのことを心の内では惜しみながらも、カノンはその隣りに腰を落ち着けた。シエルの言う『あれから』が今日のいつで、どこの男かは分からないが好き勝手に貪っていたのかと思うと、煮え湯を飲まされた心持ちになる。
 彼女はいつもこうだ。対価を得るためならとんと手段を選ばない。君の身体は特別なんだと言って聞かせても、いや、それを知ったからこその手段とは思うけれども。あの男だってと思い出して、次第に鬱々とした気持ちになっていった。
 今度の任務は想定よりも長期になりそうなのだ。国の首都を――正確にはシエルの傍を離れることになる。あの男が、カイン伯爵があらかじめ何かを仕掛けておくかもしれない。その可能性を考えだしたらキリがなく、途端に可愛らしい顔が渋ったるくなる。そんな兄の様子を見かねたシエルは、こつんと額をくっつける。

「今日ね、定期監査にセス様がお越しになられたわ」
「……本当? まるっきり管轄外じゃないか」

 近衛の青年将校が、調教師の定期監査に訪れた。その話しが事実なら、管理局や憲兵隊の代理だろう。あの青年に限って管理局に伝手があるとは到底思えないし……。そこまで考え至って、憲兵隊なら姉が在籍していることを思い出す。
 急に黙り込んで唸った様子に、シエルは「どうしたの?」と、言葉少なにだが心底気になると言いたそうな気配を隠さない。その言葉に引き上げられるように、カノンは思考を整理しながら「ああ、いや」と歯切れ悪く返した。

「姉上なりの伯爵除けかな、なんて。僕もだけれど、また遠くに行かれるみたいだから」

 伯爵除け。言いながら酷く真面目な顔をした兄に、妹は肩を揺らして笑った。お守りと称して敬遠している息子を宛がうなど、効率的とはいえとても趣味が悪いと思うのだ。それが、姉にできるだろう唯一の防護策だとしてもである。余計に父子の溝が深まるじゃないか、と思うけれども。

「それで顔を見せに来てくれたのね。今度はどこまで行くの?」
「聖王国の首都だよ。そうだ、君が好きそうなお土産、買ってこようか?」
「良いわよ。もう子供じゃないのだし」

 言葉を返しながらシエルはスカートを上げ、身なりを完全に整える。彼女がカイン伯爵に『取り引き』と称して肉体関係を持ちかけたのはいつからだったか。尻で達することを覚えて、それから女になるまでの数年。決まって彼ら、セスとナハトが帰郷してくる時節には、魔術による結界と妨害の陣が敷かれた隠し部屋で話していたものだった。
 あの夜だって肉椅子に腰を下ろし、座学を教えてもらう予定だった。そのあと約束の場所に向かって、中央領に戻る予定のセスを見送るつもりでいた。予定は最初から台無しで、それでも祈るような思いで教会へと走った。見送りには間に合わず、利害が一致したナハトに連れ出してもらい、娼婦として身を隠していた。
 ローデに残されたカノンは一時でこそ荒んでいたようだったが、軍学校を主席で卒業していた。シエルにまつわる一件以降、カイン伯爵との折り合いが極めて悪くなったこともあり、以前から進んでいた養子縁組の話しは白紙になったと聞いた。彼が司書を目指したのは、やっぱり報復のためだろうか? そうなって然るべきだと宥めても、当時を思い出せば腸が煮えて仕方がないのだろう。

「あ、カノン。お夕飯は?」
「食べてきちゃった。本当は君の手料理が良かったんだけど」

 照れくさそうに頬を掻いた兄からは、かすかに女物の香水の匂いがした。彼はいつだって誰とは言わないが、ほんのりとした残り香はこの部屋では目立つものだ。シエルはあえて何も訊かず、ただ「女の子泣かせになったのね」と茶化しながら夕暮れの窓辺に立った。