第四章 綺麗なもの
広大な田畑が領地の大半を占めるキーリカ領。ザーム一帯が中心地となっている農耕地で、レムギア帝国の東南部に位置する帝国最大の補給地だ。その地を治めていたのはヴァンベルグ家という伯爵家で、北方を治めるクロイツ家と並んで二大伯爵家と呼ばれていた。しかし、先代の領主だったヴァンベルグ伯爵は三十代なかばと年若くに没してしまったのだ。
彼には三人の子供がおり、傾こうとしていた家を継いだのは適齢になったばかりの娘・ユニアであった。彼女は伯爵家としての地位や領主権といった一切の権力を国に返し、ザームの屋敷で年齢の離れた腹の違う弟妹たちと慎ましく暮らしている。今日も避暑がてら森林の先にある小高い丘に来ているところだ。そこで姉弟三人、各々やりたい事をやりながら同じ時間を共にしているのだった。
「……あ! ウサギさん」
「逃がしてやれ、シエル。気持ちは……まあ、分からないでもないが」
蒼々と茂る草の合間から見えたのは、ぴんっと立った二つの長い耳。幼いシエルが見つけたのは茶色い夏毛になったばかりの野ウサギだ。それを興味津々に捕まえようとする様子を、姉のユニアは静かにそっと制する。元気なのは良いことであるが、少しばかりお転婆なのが玉に瑕だろうか。
そうやって片方ばかりに気を取られていると、反対側からくいくいと控えめに袖が引かれる。弟のカノンはどうやらスケッチを終えたらしい。青空にもくもくとわきだした入道雲を描いた彼は、どことなく満足そうだ。
「カノン、シエル。そろそろ帰ろう、雨がくるかもしれない。風邪をひいたら」
「大変だ、だよね? ほら行こう、シエル」
「……うん。ばいばい、ウサギさん」
双子たちの様子に自然と微笑が浮かぶ。姉はゆっくりと立ち上がり、二人の小さな手を取った。そうして一歩、また一歩と屋敷に向かって歩き出す。ザームは今日もカンカンに照っていて良好な天気だが、じきに雨が降るだろう。ここのところ日照り続きなのが少しばかり気にかかっていたくらいだ、たとえ夕立ちであろうとちょうどよい恵みの雨となるに違いない。
キーリカ領の新しい領主であるヴェーデ卿は、お世辞にも善政を敷いているとは言い難い。不作の年であっても取り立ては厳しく、苛烈と言っても過言ではないほどだ。その一方で自身は放蕩の限りを尽くす始末――いくらこの地が他と比べて肥沃な土地柄とはいえ、そんな調子では農民たちが困窮するのは目に見えたことだろう。
「済まない。私の力が及ばないばかりに、苦心させた」
「そんな……! そんな……! とんでもございません。このご恩は必ず、必ず……!」
残りたがった使用人たちから順番に新しい勤め先を決めて見送る。メイドたちのあたたかな心遣いにじくりと心が痛んだが、この程度で音をあげていたら到底この先は務まらない。……と、ユニアは己を叱咤するのだった。そして気づいた今となって屋敷に残っているのは、彼女が幼い頃から支えてくれている執事長と数名のメイドたちだけである。
シエルはさほどでも無いが、カノンはどうにも身体が弱い。季節の変わり目や魔力の消耗が著しい時は、決まって体調を崩していた。そのうちどう切りつめても薬代さえ賄えなくなり、ユニアが考えあぐねていると父の最期の言葉を思い出す。
――俺に何かあったらカインを頼れ。ムカつくけどよ、頼れるのは事実だ。ユニア、父様との約束な!
それが最後の指切りになるなど、あの時は思いもしなかった。もう声は思い出せないが、親友の悪態をつきながら笑ってくれた気がするのだ。ぼうっとした記憶から引き上げられると、思い出したその言葉どおりにクロイツ家を頼ることにした。
クロイツ家は同輩の生家でもあるが、だからといって彼を頼るのも気が引ける。家督であるカイン伯爵との交流は薄くなってしまったため一抹の不安はある。だが、ここで足踏みするわけにもいかず、祈るような思いで筆を走らせ手紙を綴った。
「姉上、お手紙と荷物が届いていたの。どなたから? お友だち?」
「そんな気軽な間柄ではないが」
「……? どうしたの、姉上。なんだか嬉しそう」
カイン伯爵からの返書は思いのほか早く、それでも半月ほど近くが経ってから届いた。そこには時節の挨拶からはじまり近況と、形式的なものに添えられた「カノンとシエルの両名を保護する」との確かな筆跡の一文。これには冷静を努めているユニアも微かに涙を浮かべて喜んだ。
手紙と一緒に壮年の紳士から贈られてきたのは、落ち着いたモカ色のアンティークドレスに黒のパンプス。それからドロワーズやペチコートなどの下着一式と、とにかく徹底してシエルを淑女として扱っている。この有り様には「了承なのはありがたいが」と喜んだのもつかの間、大人たちは誰もが呆れ返ってしまうのだった。
「わあ……! えへへ。贈っていただいたドレス、似合う? 姉上」
「ああ。よく似合っているよ」
そういった大人たちの苦労や苦心を知らされずに、幼いシエルは日々を過ごしていた。伸ばしかけた髪を梳っては、何度も何度も姿見を覗き込む。小さな肩掛け鞄に詰め込んだのは、よそ行きのドレスとペチコート。それからフリルが彩る純白のドロワーズに、履き潰していない真新しいパンプス。どれもが特注の品であって、彼女は今からその贈り主へと会いに行くのだ。
物心がついた時にはすでに両親という存在はどこにも無かった。何ひとつない彼らとの想い出。それが無いから喪ったことを寂しいとも、恋しいとも、執着のしようがないことを知ったのだった。周りにはどこを見ても大人しかおらず、皆が優しくしてくれた。
それであっても、やりきれないものが確かにあったのだ。だからと言って寂しいと泣いて困らせることもできずに、幼いながらに何かを理解した彼女は、縋るように大好きなウサギのぬいぐるみを抱きしめる。……それしか穏便に解決する方法が無かったからだ。
「カノンと私は先に出る。お前ひとりなのが心配だが」
「大丈夫。困ったら大人のひとにお訊ねするの」
「……分かっているならいいんだ」
どうしても寂しくてたまらない時。そんな時は、気持ちが落ち着くまでぎゅっと股間を握りしめて眠った。単なる自慰行為。その代償行為に性的なニュアンスはまるで無く、それでも足りない時は恥丘を揉み込むように五指を動かした。ふわふわと暖かなもので満たされて、どこか地に足がついたかのように錯覚する。カノンと一緒になってお互いを慰めあったりもした。手を伸ばして秘部を擦りあい、鋭くなった感覚や満たされてくものを共有しあう。
そんな行為がたびたび家人に見つかり、ある時ユニアに激しく叱責されたのだった。あの冷静沈着な姉が取り乱し、ひとしきり落ち着いてから無感情な声で言い放った言葉。それはシエルの心に深い傷を作っていて、思い出すたびにじくじくと生傷のように痛んだ。そんな事があってからと言うものの、二人はどことなく彼女と距離を取るようになったのだ。
「行ってきます。父様、母様」
肖像画の中で微笑む男女に小さく言葉を投げかける。そんな形だけの行為。シエルの中では、ただひたすらに神に祈り、救いの手を待つのと同じだ。無味乾燥であってまったく意味が無い。言うなれば時間の無駄である。それが妹の包み隠さない心持ちだとも知らずに、姉は物言わず悲しげに睫毛《まつげ》を伏せる。その悲しげな仕草さえ見せかけで、その関心は、いつだって片割れのカノンにだけ向いているのだろう? 否応にも懐疑してしまう。だから、あれこれと考えるだけ無駄なのだ。
まるで嫁入りみたいじゃないか。
かわいそうにねえ。
心ない大人たちの身勝手な囁きが聞こえる。これから向かう先で、たとえどんな生活が待っていようとも、こんな田舎に幽閉されて将来を勝手に決められるよりはずっといい。そう思ってしまうのは一向に少女自身を見ようとしない、ユニアや周りの大人に対する反抗心なのだろうか?
言い知れない疑問を抱えながら、シエルはこれから汽水湖づたいに広がるルウェン中立領行きの馬車に揺られて、ひとまず船で対岸へと渡る。今夜はそこで旅の疲れを癒しておき、翌朝一番に目的地のローデを目指すのだ。生まれて初めての一人旅に、ぬいぐるみを連れた彼女の心は少しばかりはしゃいだのだった。