第四章 綺麗なもの




 ルウェン中立領の対岸も、場合によってはレムギア帝国の西北一帯ダリム領と見なされる。丘陵地と都市ひとつを挟んで聖王国と隣りあうその場所は、国交の要所であり鉱山都市レイルから流れてくるミスリル銀を使った銀細工が有名だ。
 鉄や銀などの鋼材を溶かしているのだろうか、工房の排気口からは途絶えることなく蒸気が立ちのぼっている。カンッカンッと小気味よく鉄板を叩いて延ばす音。それから職人たちの威勢のいい掛け声や、道行く客引き売り子の明るい声がする活気のある街だった。

「お嬢さん。お友達とどこまで行くのかえ」
「えっと、んっと。クロイツ伯爵様のところ!」
「伯爵様のお屋敷は、ほれ、あの薔薇が立派なお屋敷じゃよ」
「ありがとう、お婆さま!」

 途中で道の舗装が切れてガタガタと馬車が揺れる。その揺れに身を任せていたシエルは、人の良さそうな老女と会話をしながら、立てつけの悪い窓を開けてめいっぱい外の空気を吸い込んだ。教えてもらった薔薇が見事な屋敷は、少女の低い視界からでもすぐに目線が行った。そうしているうちに、ローデの停留所にいななく馬たちが停まる。忘れないように荷物とぬいぐるみを抱えて、どうにかこうにか手を振って老女に別れを告げる。

「……定刻どおりか。無事で何よりだ」
「薔薇が綺麗なお屋敷だって、教えていただいたから」
「そうか。……さ、行こう」
「……うん」

 不思議だった。あれだけ寂しくて堪らなく渇いていたはずなのに、こうして姉に会えば傷が痛んで心の底がしんと冷える。言葉に困って、それを探しているうちに切りあげられてしまう会話。これが自分でなくて、たとえばカノンだったら何か違うのだろうか? よく、分からない。
 合流したユニアに手を引かれて向かったのは、馬車から眺めていたひときわ目を惹く大きな屋敷だった。慣れた様子で呼び鈴を鳴らすと、その音を聞きつけてやってきたメイドに荷物を預ける。入れ替わりメイドに連れられ部屋に通されると、そこには紳士然とした一人の壮年の男がいた。

「無沙汰している。カイン殿」
「勉学に励むのが若人の仕事であろう? 気にされる必要は無い」

 士官前の多忙さに理解を示した紳士に対してユニアは何かを言いかけて黙り、しばらくして「感謝する」と礼を尽くした。その様子に満足した彼がドレスを贈ってくれたカイン伯爵と言うのか。
 失礼が無いように、ふさわしくしなきゃ。
 必死に縋るように姉の服を掴んでいたシエルは、痛いくらい自身にそう言い聞かせる。ふと、カイン伯爵と視線が合ってしまい、とっさに近くの背中へと隠れた。そんな仕草から揺れて翻ったスカートが見えたらしく、紳士はその腰を折って高い目線を丁寧に下げる。

「ユニア殿、こちらのお嬢さんは?」
「妹のシエルだ。ほら、カイン殿に挨拶を」
「あの……えと、素敵なドレス……ありがとう、ございます」

 促されてしまい、隠れた背中からシエルは怖々と顔を出す。勇気を振り絞って感謝を述べながら表情を真っ直ぐ覗けば、そのあどけない仕草が微笑ましかったのだろう、カイン伯爵はわずかに表情を緩めた。

「気に入っていただけて何よりだ。しかし――大人の話しは退屈だろう。少し冒険してくるといい」
「カイン殿! あまりその子を甘やかさないでやってくれ」
「はは、良いではないか。母親が厳しいのだ、これくらいの飴が良かろうて」

 目に見えて苦い表情をした姉は言葉を返せない。いや、あえて返さないのだろうか? 大人の話しはよく分からない。カイン伯爵に促されるまま、シエルは屋敷の中を冒険してまわった。
 陽当たりのいい廊下を歩いて、まずは用意された自分の部屋へと向かう。それから見慣れない本がたくさん並んでいる書斎や、なにやら食欲を刺激する匂いを漂わせている厨房を興味深そうに覗き込んだ。料理人の青年に見つかってしまい「書斎には色んな本があるから、黙って入ったら危ないぞ」と今更ながら注意されてしまった。
 そんなこともありながら、彼女の足は自然と中庭へ向いた。平民の家が何軒も入りそうな広い庭には、純白のチェアやテーブルが置かれている。その中でも一番に視線が行ったのは、テラスを抜けてから見えてきた薔薇が彩るアーチだ。周囲の生垣を形作っているのも低い薔薇の木で、足下にめぐる水路からは途絶えることなく水が流れる音がする。流れていく水を追いかけながら、流れに従うよう顔をあげれば、その奥には真っ白な東屋が見えた。

「お兄さまは何を読んでらっしゃるの?」
「魔術理論の応用書だが」

 ぽつりと人の影を見つけると、シエルは小走りに駆け寄って行った。抜き足、さし足、忍び足。そうせずとも気配を殺して歩くのが癖だった。居ても居なくても構わない――そんな感情だけでいっぱいになって、いつも居場所を探していた気がする。声をかけたのが先か、小さな気配に気づいたのが先なのか。視線は参考書を覗き込んだまま移ろうことなく、それでいてぶっきらぼうに短く返す。少年と呼ぶにはいささか逞しく、青年と呼ぶにはまだ未熟なのだろうか。物怖じせずに近寄ると、その隣りへと腰をおろした。

「シエルにも分かる?」
「さあな」

 ひょこりと参考書を覗き込み、難しい言葉は分からないが実践してみる。まず、空間を正方形に切り取るように結界術で固定する。箱庭状になったその空間に、シエルが最初に起こしたのは水だった。そこから時間をかけて高低差のある大地をつくると山と谷ができて、そよそよびゅうびゅうと風が吹きはじめた。風を受けて元気に燃える火が生まれ出た様子からは、この空間に動植物が存在しなくとも『生きている』ことが観察できる。まだ年端もいかない少女であったが、立派に天と地を創ってみせたのだ。

「この文脈は定理の序だと思う! それでこうなって、こうなって……!」

 定理の序と彼女は簡単に口にしたが、その定理が確立されたのはずっと昔――それこそ四〇〇年も前のことだ。原文なんて言いまわしがくどくて読めたものでは無いし、なにより説明されている現象自体が魔術言語に変換されていたりと理解が追いつかない。
 そのあいだにも箱庭の景色は目まぐるしく変わっていく。火を鎮火させようと雲がわき起こり雨が降って、そのうち温度が下がったのか雪に変わる。垣根から飛び出た薔薇の枝から棘を抜いたシエルは、ぽとりとそれを庭に落とした。すると、みるみるうちに薔薇の木に育ち立派な花を咲かせたではないか。

「天と地の誕生。つがいの男女による普遍の賛歌。生物の始まりと、交配について記述されていると思う。前に姉上がお勉強なさってて、教えてくださったの!」
「まさか……お前は、ヴァンベルグ家の末娘なのか?」
「そうよ! お兄さまは……えっと……」

 訊ねながらも、少年の瞳は驚きに見開かれていた。姉にあたるユニアとは同年で、まだ二十歳前だ。その下の双子たちはさらに幼く十歳にも満たないはず。年齢に比例しない才能の一端を見せられてしまえば、眼前の彼女が何者であれ納得するより他が無い。
 彼はかすかに眉を寄せ、それでいて何かを納得した様子だった。手元にもう片割れが来るからか、と妙に落ち着いている。魔術王とまで呼ばれる故ヴァンベルグ伯爵の忘れ形見を、父であるカイン伯爵は手中に収めた。そうなってしまえば、自分は本当に価値の無い、ただの『お飾り』になってしまったではないか。

「あ……セス兄様。と、シエル! よかったあ、姉上が呼んでたよ」
「はーい! またね、お兄さま」

 複雑な少年の心持ちを知らずに、シエルは無邪気に手を振った。そうして自分を捜しまわって息を切らしている片割れの元へと走ってく。同じ色味をした少年と少女の仲は大変に睦まじく、どこか微笑ましいものがある。彼女たちは大人の事情を何も知らないのだろう。だから、ああまで無邪気に笑っていられる。それを考えると大人とは実に難儀なものだと、誰に言うでもなく独りごちたのだった。



「まったく、何処までいって……。ああ、なんだ薔薇庭園か」

 髪に花びらが絡まっていたみたいだった。それを払い落としたユニアは、じっと妹の顔を見やる。シエルはそんな仕草に不思議がって首をかしぐ。すると「何か良いことでもあったのか?」と笑って訊ねられた。ふるふると首を横に振りかけたシエルだったが、ふと思い出したのは東屋で出会った彼のことだった。あの少年の目元はどことなくカイン伯爵に似ていた気がする。髪の質感も、目の色も、そっくり映したようだ。

「えっと、あの……内緒! えへへ」
「はは、秘密にされてしまったか。いかようにして教えてもらおうかな」

 シエルの小さな体躯は軽々と抱きあげられてしまう。急に高くなって広くなった視界にきゃっきゃとはしゃぎ、その様子にカイン伯爵の口許が嬉しそうに緩んだ。

「おおかたアイツに会ったんだろう。問題は無い、カイン殿」
「そうかね。では、ユニア殿も気をつけたまえ」
「――お心遣い感謝する」

 紅茶を口にした姉が頷くと、ちょうど定刻を報せる鐘が鳴った。これから彼女は単身でザームに帰り、それから軍学校の寄宿先へと向かうのだ。名残り惜しそうな素振りさえ見せない姿に、双子はぎゅっと抱きついて「お気をつけて」と口々に添える。
 すると、一瞬だけ悲しげな色を浮かべたユニアは「年の瀬にな」と決まって短く返すのだった。姉弟で一緒に過ごせたのは、実質たったの三日だけ。シエルは寂しさにしゅんと俯くも、ぬいぐるみを抱えようとしてそれは行き場を失う。気づいたカノンが指先を絡めてくれたが、どうにもやりきれないものがあった。

「カノンは何処に行ったんだ? 本、貸してやる約束だったのに」

 応接間を出て行ったカイン伯爵たちと入れ違うように入ってきたのは、見るからに派手で軽そうな風体の年若い男だ。言葉どおり手にしている本には、どれも学術都市の印が入っている。学術都市ルヴァンはレムギアの南部に位置しており、学問が盛んなだけあってか図書館が有名だ。東西に並んだ図書館を一本の渡り廊下が繋いでいるという、実に不思議な造りをしていると聞いたことがある。
 カノンの姿を探して、その視線がきょろきょろと移ろった。柔らかそうな鳶色の髪がふわりと揺れて、モノクル越しに覗いてくる瞳は翠と――反対側は紅だ。シエルの姿を捉えると、彼は八重歯を見せてとても人懐っこそうに笑った。

「此処に居たのか、カノン。お前が欲しがってた本、借りてきたぜ」
「ありがとうございます、ナハト兄様! 僕、ずっと読んでみたかったんだあ」
「それとうちに来たばっかりのお姫様には、お兄ちゃんが特別にいいものやるよ」

 嬉しそうに本を受け取ったカノンは、部屋まで待ちきれないのか豪華な装丁の表紙をめくりはじめた。そんな様子にわしゃりと髪を撫でてやると、ナハト兄様と呼ばれた男は再びシエルを見やり、何かを思いついたようにその膝上を叩く。
 じりじりと注意深く近寄ったシエルだったが、呆気ないほど簡単に捕まってしまう。抱えられ、膝上を椅子にすると何やら別の本を開いて読み聞かせてくれた。彼が読んでくれたのはレムギアに伝わるお伽噺のひとつで、少女が一番好きなものだ。

「……おしまいっと。どうだ、お気に召したかい」
「えへへ。ありがとう」
「よしよし。俺のことは気軽にナハトお兄ちゃんって呼んでくれよ? 会いたかったぜ、シエル」
「何が『お兄ちゃん』だ。いい加減に年を考えてくれ」

 ぬいぐるみでも抱きしめるように、むぎゅうとされるがままのシエル。じたじたと藻掻いていると、伸ばした手は力強く握られる。静かに入ってきていたのは、あの時に見かけたカイン伯爵似の少年だった。兄と呼んだ男の――ナハトの様子に呆れているのか、みるみるうちに眉間へと皺が寄っていく。弟の有り様に呆れ返ったナハトは、悪戯でも思いついたかのように寄せられた眉根を指先でつついた。

「うわあ……仏頂ヅラのセスだ。逃げろ逃げろー!」
「兄さん! まったく……逃げ足だけは無駄に早いな」

 頭を抱えて考え込む様子のセスを視界に収めた途端、とくんとシエルの心臓が高鳴った。かぁっと頬が熱を持って、だんだんと直視してるのが厳しくなってくる。ナハトの膝から降りると必死になって手を伸ばし、彼に少しだけ屈んでもらう。
 ようやく届いた指先で、労わるようにさすさすと優しく眉間をさすってやる。すると、大きな身体がびくりと揺れてとても驚いた表情をしていた。そんな表情を可愛く思いながらも、サッと視線をそらす。こんなふうに他愛ないやりとりも、大人になったら忘れてしまうのだろうか? それを考えたらなんだか寂しかった。