第四章 綺麗なもの
四度目の冬がくる頃には、クロイツ家にもすっかり馴染んでいた。息子たちを見限ってのことだろう、カイン伯爵は双子に対しては熱心だった。魔術もそうだが、一般的な教養にはじまり読み書き、習い事。とにかく興味を持ったものには資金や人手を惜しまなかった。そんな恩人たる彼の口癖といえば「魔術の扱えない男など種馬以下だ」だろうか。常々そのように口にしていた訳ではないが、たまに言葉にするからこそ印象深く残っているのかもしれない。それが実の息子に宛てられたものであると知ったとき、シエルは悲しく思ったものだった。
自分たちは大切にしてもらえるのに、どうして。
ありふれた不平等が少女の心に突き刺さり、言葉にしがたい情動がぽたぽたと垂れ落ちた。だからある日、彼女はカイン伯爵に言ったのだ。自分の身を担保にできないか――と、見積もりの甘い、けれども精一杯の懇願。それを待っていたと言わんばかりに、婦人の嗜みと称して手管のひとつ、どうすれば男は満足するのか。その様々を仕込まれていく。
一緒になって教えてくれたのは、お世話になっているピアノの先生だ。いつもいつも愛してると、うわ言のように囁く。アイシテル。そんなの嘘でまやかしだ。だって、彼の視界に収まっているのは魔術の虚像であって、シエル自身を見ているわけではない。先生は彼女が見せる幻を見抜けず、手のひらの上で転がされているだけなのだから。けれど、とも思う。そうすることで――受け入れることで目に見えない愛情を示せるのなら。大好きなあの人とだって出来るはずだ。唯一、言葉を選んで慎重になってしまう、あの人と。
「シエル、なぜ黙っていたのだね。寝たのか、倅と」
「おじ様は私を愛してないから。……、……」
今日の成果。言いながら壮年の前で尻を割り開き、微かに綻んだ秘孔から白濁を掻き出す。その仕草がいたく気に入っているのか、それとも単なる歪んだ独占欲か。次はカイン伯爵の肉を咥えて、その椅子に腰を落ち着けるはずだった。
なのに、その日の夜は最初から何かが違った。寝たと言うほど、何かがあった訳ではない。セスとナハトと三人で話しをして、疲れたのかシエルは寝入っていた。そこで兄弟が何かを話し合っていたのは事実で、少女の身体が熟したことを我がことのように喜んでくれたのも事実であろう。
「お前は最高の胎だ、子も授かれるようになった。私を選べ。あんな価値の分からぬ男になど、みすみすくれてやるものか!」
「…………っ」
いつだったか、街中を歩いていた時にすれ違った親子連れと、クロイツ兄弟との姿を思い出した。彼らはその親子をまるで眩しいものでも見るかのように見つめ、何かを隠すよう必死になって話しを振ってきた。彼らには父子らしい会話も想い出も無いのだと、のちに世話係のメイドから聞いたのだ。なにか出来ることはと思案し、その結果が自分の身を担保にすることであった。
だが、悲しいほどに今さっき放たれた言葉が、すべてを物語っているように感じた。シエルは返す言葉もなく、恩人である壮年に対して憐憫《れんびん》のようなものがわいた。このレムギアという国では、魔術師としての才能がすべてと言っても過言ではない。才能が薄い者、皆無な者には等しく揃って価値が無いのだ。それを愚直なまでに体現しているのが、なんだか無性に悲しかった。
「おじ様に渡すような胎なんて……。約束があるの、そこを通して」
「ならん。お前は私の、私の……!」
シエルを捕まえようと、カイン伯爵の手が迫ってきた。魔術の伴ったそれを避けると、微細な魔力の流れを感知してブレスレットの石が砕けて飛散する。男が怯んだ一瞬を見て、逃げるように部屋を出た。広い敷地を抜けて裏通りへ。暗がりを走り、寝静まろうとしていたローデの街中を教会に向かって駆けた。
息を切らしながらたどり着くと、冷たい空気を吸って苦しい呼吸のまま重たい扉を開ける。約束の時間に遅れてしまったにもかかわらず、礼拝堂にはひとつの人影。放たれている魔力は抑えられているにしても異質――そこに居るのは約束の相手ではないと改めて認識する。単純に、まとっている気配が『違う』と告げているのだけれど。
「ナハト……さま? どう、して……」
俯き加減のナハトが、たまに歌ってくれるわらべ歌を口ずさんでいることに気づく。その瞳を覗いたらいけない。感覚ではそう理解しているのに、シエルは自身の動きを律せないでいた。歌を呼び水にして少女の動作を操っているのだ。彼は色味の異なる右眼で未来を視認している。本人からそれとなく聞いたことがあったが、事実と認めるより他になかった。何故なら視ている未来の一端が、映像となってシエルにも伝わってきたからである。
それは、この礼拝堂での出来事のようだ。 何かがあったのだろうか? 式典か何かにしては招待客の姿が見られない。長椅子は見事に壊れているし、壁にも何かを打ち付けたような亀裂が入っている。すんっと鼻を利かせれば、どこからか漂ってくる錆びた鉄の匂い。ふと足下を見れば、赤黒い血溜まりを踏みしめているではないか! そしてその赤は自身が纏っているドレスを染めていくのだ。じわりじわりと蝕ばむように、ゆっくりとシミを広げていく。その源流を探って視線を右に移ろわせてみれば、槍に貫かれて壁に縫いつけられた女の亡骸に行きついた。その手にはレイピアが握られており、こと切れたあとであっても手放されることが無い。
さらにその下――長椅子に埋もれているのは左眼を抉られて、手足を使い物にできなくなった少年。まだ口が残ってると言いたげに、ありったけの憎悪を吐き散らす。正面の扉を背に立っているのは、右眼を潰されてもなお抵抗を試みる男。片眼を失っていても焦った様子ひとつ見られないが、死地に追い込まれていることには変わりない。この場に居合わせる誰もかれもが花嫁の――自分の見知った顔だと理解した瞬間、シエルはギュッと固く両眼を閉ざした。
再びあの光景が広がっていたらどうしよう? その不安を和らげてくれたのは、震える肩に置かれた手だった。こじ開けるように瞼を持ちあげる。するとそこには綺麗なままのナハトの顔があり、長椅子があり、壁があって、悪夢から現実へと引き戻されたことを教えてくれた。
「視えたか? お兄ちゃんのいつもの悪い、わるーいユメさ。……早く忘れろよ」
「……でも……」
「優しい子だ、シエル。なら、こっちは忘れないで。俺は死ぬのが怖いんじゃない。俺がなにより、なによりも一番怖いのはさ……」
今になって思えば、彼が言ってくれた言葉の半分も理解できていなかったと思う。それでもシエルは着の身着のまま屋敷を出ることにした。親身にしてくれていたメイドに片割れを託して、その日を境にナハトが切り盛りしている娼館に身を置くことにしたのだ。
あの惨劇を回避するため。
ひいては、もう一度あの人に会うため。
二人の利害は自然と一致した。そのためなら何でもできる気がした。宮廷に出入りできる公認の調教師として管理局からの認可を受けたのは、シエルが身を隠してから四年後のことである。まだ十八にも満たない調教師の誕生に好事家な貴族たちは、社交界は大いにわき立つのだった。