第五章 冬の足音
今ではすっかり橙と紫の濃淡が空いっぱいに広がり、まるで敷き詰めたように小さな星屑の群れがまたたく。夜のとばりが降りるのも、もはや時間の問題だった。陽光で暖まった空気が冷え込んで、だんだんと刺すような冷たさを含む。遠くから聞こえるのは水鳥の鳴き声。気がつけばこのルブルムにも、厳しい冬が訪れようとしている。誰もいない礼拝堂で、シエルは静かにステンドグラスを眺めていた。
思い出されるのはあの時、セスと交わした初めての約束のこと。それに間に合っていたらなどと、考えても仕方のない、けれども捨てきれなかった希望。そしてその希望を掴むために足掻きつづけると、ナハトに約束したのだ。まるで礼拝堂内の様子を窺がうように、慎重に開けられた扉。入ってきたのは一人の青年で、一番会いたくて、でも会いたくなかった顔だ。長椅子に座る、その微妙な距離がなんだか寂しいなどと思ってしまう。言葉にしたところで今更と思われるだろう。それでも口にせずにはいられなかった。
「ねえ、セス様。あの時、間に合っていたら……何か変わっていたの?」
「…………。それは、お前次第だ」
「分かってはいたけど、ずいぶんとずるい言い方をなさるのね」
想像どおりの回答。シエルの口端に浮かんだのは失笑だった。彼が何を思っていようとも、明言できないのは分かっているのに。魔術師として劣る以上、他に勝るものがあってもまったくの無意味。それが嫌というほど染みついているのだから。
そのたびに彼女は思うのだ。天才直系の子――それにどんな価値があるのかと。確かに、残された魔術理論は理解できたし、再現だってできた。でも、それができたからといって、欲しいものはいつだって手に入らなかった。むしろ、遠ざかる一方だった気がするのだ。伯爵様だって、と思い出して途端にこのあとの執務が億劫になる。本当なら門前払いしたかったが、火急だと言われて約束を取りつけてしまった。当日を迎えてしまったのだし、こうなってしまっては諦めるよりほか無いだろう。
「どうした? やけに気が重たそうだが」
「このあとの予定が少し。ねえ、セス様。お守りってお持ちで……ないわよね」
「……男除け程度なら可能とは思うが」
「お願い。気休めでも構わないわ」
セスはしばらく腕を組んで何やら思案し、ふと妙案が浮かんだのかシエルの足許に跪づく。組まれた脚線を確かめるように撫で、ふにっとその弾力を確かめる。無防備なそこに唇が寄ったかと思えば、鬱血した痕がひとつだけ残された。顔をあげた男は少女の表情を覗き「これで我慢しろ」と言ってはニヤリと笑う。
彼は何も知らないが、分かってやっているならタチが悪い。そう不満をこぼそうとしたが、想像以上に羞恥心が込み上げてきてシエルを黙らせた。確かに『男除け』の一種ではあるが、これでは火に油な気もする。だが、とりあえずのお守りは得たのだ。これで避けきれるなら良いのだが。少しだけ上向いた気持ちに、我がことながら単純だと笑った。
「お嬢ちゃん。そこの道行くお嬢ちゃん」
礼拝堂を出てとぼとぼと歩いると、どこからか物乞いの声がする。シエルがそちらへ視線を流すと、そこには薄汚れた傷病兵の姿があった。三年戦争のおり、レムギアの国土はほとんど焼かれなかった。とはいえ、こうしたところで傷跡が垣間見えてしまうものである。まるで生きたゴミでも見るような視線を向けられる姿に、少女は思わず視線をそらした。そして何も見なかったかのように歩を進める。すると、猫なで声が身もふたもない罵倒に変わった。口汚く罵る姿から、今日の生活にだって困っているのは明らかだった。
ぱっちりとした目元にふっくらとした唇。それから高い位置で絞られた腰に、その年齢にしては慎ましい胸元。こうして静かに着飾っていれば貴族の箱入り娘に見えなくもない。実際にそれなりの生まれだが、貴隷調教師をしている変わり者だ。
今だって何も一切の財を恵めないわけではない。その気になれば少しだって恵んでやれる。だが戦争で負けた以上、彼のように困っている者などいくらでもいる。彼ひとりだけを特別視なんてできない。ましてや一時の感情に任せて施すなど、与えるのであれば平等であるべきだ。それゆれにあえて『恵まない』という選択肢を取ったのである。
「シエル様、お客様をお連れしました」
「そう、ありがとう。下がって構わないわ」
小間使いからかけられた声に、シエルは冷えきった紅茶を流し込み渇いた喉を潤す。買い取ってきたときよりずっと血色のいいアインツは、屋敷での仕事にも慣れてきていた。元より素直な性質なおかげか柔軟に物事を吸収していく姿には微笑ましいものがある。
そんな少年の後ろ姿に続くのは壮年の紳士だ。整えられ口髭を撫で来客用のソファーに腰を落とす。この部屋の主人に穏やかな、それでいて獲物を狙うような鋭い視線を向ける。
「カインおじ様……。いつ、戻ってらしたの?」
「つい三日ほど前にな。元気だったかね、シエル殿」
それとなく敬称で呼んだ紳士は、どうやら少女の近況を知っているようだった。シエルが宮廷社交界に出入りするようになって二年――偽装した手紙だけのやりとりだったというのに。この男のことだ、きっとその偽装すら見抜いている。欺いたことすら許し、そこまでして自分を手に入れたいのか。
まるで子供を座らせるよう膝上にシエルの半身を乗せるが、それにしてはどことなく淫靡な仕草。そう感じてしまうのは、カイン伯爵との想い出がそうさせるのだろうか。少女が静かに身を離すと紳士の声音がワントーンほど落ちた。
「いやだわ、おじ様ったら。急にかしこまったりなさって」
「はは、なかなか似合っているよ。ところで……私との結婚は考えなおしてくれたかな? いつまでも待てるが、このままでは老いぼれてしまうよ」
結婚。自分が誰かと所帯を持つ。女なのだし、いつかはと思う。だが、この国の誰がシエルという個人を求めてくれるのだろう。魔術師である以上、才能のある子が欲しい。自身が誉れ高いなら、それに見合った子孫であって欲しい。家督であったらなおさらの願いだろうと思う。だが――。
「おじ様が本気なのは分かるわ。でも、そういった感情が薄いみたいで、その……」
自然と発する言葉の歯切れは悪くなる。この男だから結婚したくないのか。なら、他に誰がいる。誰のために帰りを待つ身になりたいのだろう。誰との子が見たいのだろう。ぐるぐると思考はめぐり続ける。
堂々めぐりの様子を壮年は冷たく笑った。そうして彼はシエルを深く腰掛けさせてしまうのだ。あの時みたいに半身を背凭れにして尻の柔らかさを伝えると、その尻溝に萎えてもなお存在感のある肉茎が押しつけられた。
「倅とも会ったのか。ずいぶんとあれが騒がしかったものだ」
「ええ。……素敵だったわ。夫人はお飾りが過ぎるのではないかしらと思うけれど」
やれやれと煩わしげに肩を竦めたカイン伯爵に、ふと彼の姿が重なる。父子なのだし当然だろうが、意識した途端にとんと直視できなくなってしまう。きちんと声を発したはずなのに、シエルの喉から出たそれは弱々しく「カインおじ様」とたった一言だった。
別に誘っているわけでも、手酷くされたいわけでもない。だと言うのに芯を持ちはじめた肉茎を突き入れられることを望むかのように、ふるりと身を震わせてしまう。歪に皺を寄せた紳士は、恥じらいの色を浮かべる様子に満足したのか「そんな声を出しても駄目だ」と意地悪く預けたのだ。
「倅は何も知らないのだろう? 知りようもないだろうなあ、お前の望みなどささやかであるとさえも。――酷い男じゃないか」
そう吐き捨てた紳士は席を立ち、窓辺から庭を眺めては問いかけるように緩く首を傾げた。散々そのように躾けておいておいて、肝心なところで預ける。いつだってこの男は焚きつけるだけで、決して自分からは手を付けようとしない。
まるで『理由』を探しているかのように感じられた。ならば、シエルはそれを与えるまでである。出て行こうとする彼の腕を引いて、ソファーに寝転ぶ反動を利用して押し倒させてしまう。すると、貼りつけられている乾いた微笑が一瞬で険しくなった。
「この悪戯娘め。昔は乳首だけが一人前に熟れて、その不格好さが可愛らしかったものだが……お前くらい淫らな娘というのも悪くはないものだな」
「では伯爵様、今からお仕事の時間になさらないかしら。貴方にとっても悪くない話しのはずよ」
ヒールを脱ぎ、タイツだけの足先でその中心を撫でまわす。シエルがそうして遊んでいるあいだにも、カイン伯爵は手慣れた様子でウエストを絞るコルセットをたどり、手間取ることなく外してみせる。まるで幕のようにスカートが垂れ下がって、美しい脚線やガーターベルトが覗く。白く張りのある太腿――その一箇所に食んだような痕がある。どう見ても真新しい痕跡に、忌々しいと言いたげに壮年は歯を立てた。
「……っあ! ん……んっ……」
すでに湿っているショーツのクロッチ部分を右側に寄せると、ようやく顔を出した無毛の恥丘をツゥッと軽くなぞった。剥いた卵の白身のようにつるんとした肉丘には、薄桃色をした縦溝が深く走っている。それを菱形に割り開けば、とろりと蜜が垂れ落ちてきた。ぷくりと膨らんだ淫芽がカイン伯爵の唇で食まれ、ざらついた舌で転がされる。強弱をつけながら吸いつかれるたびシエルは小さく肩を跳ねさせながら堪える。執拗なまでに繰り返されると、やがてぴんっと太腿が張った。
「ふぁあ、ああああ! い、一回目です……カイン、おじ様……」
「まだ覚えていたのかね。良い子だ、シエル」
革張りのソファーにまでびちゃりと愛蜜がしたたった。恥裂の造形を舌先でたどり、細腰を持ち上げてはその奥にある窄まりへと捩じ込まれる。瞬間、久しく与えられなかった快感が突き抜け一瞬で果ててしまっていた。達するときにはその回数を数える。消え入りそうなほど小さな声だが、壮年の耳には実に心地よく響いた。
褒めるように尻肉が撫でられ、指先が秘孔を広げた。根元まで押し入ってきた指の数は増えていき、具合いを確かめてはゆっくりと出し入れされる。子宮の裏側から刺激され続けて、やがて耐えかねたのかびゅくりと潮を吹く。あの頃はよくお伽噺を読んでやりながら、彼女の望むまま肉茎を突き込んでやった。瑞々しい肉の奥の奥まで丹念に洗ってやったりしたものだった。シエルは甘い叫びをあげながら、自分が作った蜜溜まりへとぐったり身を沈める。短い舌を出しては何度も呼吸を整えていた。
「好色が過ぎるぞ、特務少将」
「英雄とは色を好むものだろう。違うかね、少佐殿」
殺気にも近しい威圧感を放ちながら、乗馬鞭の切っ先がひたひたとカイン伯爵の頬に触れる。思いきり叩くように振るわれると、それはスカッと空を切った。薄暗かった部屋の魔術灯に魔術が灯る。すると、先ほどまでそこに居たはずの紳士の姿は無かった。代わりに残っていたのは一通の手紙。どうやらそれに術が仕込んであったようで、肝心の術者である壮年はとっくのとうに姿を消していたのだ。言動や行動ひとつ、どれを取っても幻影だと見抜けなかった。
いつから? どこから?
完全に踊らされていたと理解したシエルは、動揺と同じくらい苛立ちを隠せない。特殊なインクで綴られた言葉はただ一言「誕生日おめでとう」との旨だった。これのどこが火急の用事だと言うのだ。その怒りを代弁するかのように、手紙を拾いあげたセスは容赦なく破り捨てた。
ほんのわずかな時間とはいえ、彼女はあの男の術の支配下に置かれていた。その思惑を考えるだけでゾッと悪寒が走る。カイン伯爵が一番に得意にしているのは、他者の精神に働きかける魔術になる。それを前にすればシエルが何を思い、何を感じようとも、否応なしに手を入れられ引っ掻きまわされた気がして許せないのだ。
「それより、どうしてセス様が? 人は払ったはずなのに……きゃっ!」
大きな体躯に力強く抱きしめられる。とっさの出来事に小さく洩れてしまった悲鳴。それが聞こえたのだろう、少しだけ抱きしめる力が緩んだ。けれど、決して離してはくれなかった。シエルが静かに表情を窺がえば、そこにはまるで自分が傷ついたかのように歪んだ顔があった。視線に気づいたのか、それは隠すようにそらされる。
彼が見せるその表情には駆り立てられるものがある。セスの眼前で散らされた瞬間――あの時もこんな表情を見せていた。はっきりと瞼の裏にこびりついて、今になっても剝がれない。高揚感でない何かがわきあがり、ざわざわと心が騒ぐ。
「外交官が帰還した旨を聞いて、嫌な予感がした。悪くない話しなどと、あの男に何を。あの男がお前を見ているわけではないことくらい、分かっているだろう」
「…………。伯爵様も姉上も、ナハト様だってきっとそう。気が狂っているのではないかしら」
愛しているなどと嘘でまやかしだと、都合のいい肉人形を得るための口実だと誰か言ってくれ。お前より彼女の方が好みだと、お前など顔の似ただけの女だと。そのほうがいっそ清々しいくらいだと言うのに、誰もが揃ってあの手この手と小賢しい。
つい辛辣な言葉を選んでしまう。ぐしゃぐしゃにかき乱されすぎて、思っているよりも心に余裕がない。切羽詰まって余計なことまで口走りそうだ。シエルが発した言葉の端々から何かを感じ取ったのだろう、セスはさらに表情を歪めた。そんな彼から言葉少なに絞り出されたのは、意外にも贈り物の話しだった。
「冬の決まった日に、真っ白な薔薇が届くんだ。僕に白い薔薇を贈りたがる女なんて、生憎と一人しか知らない」
ローデの屋敷にあった薔薇庭園。そこを手入れしてくれていたのは初老の庭師で、引退するその日まで手入れを欠かさなかった。熱心な彼の仕事ぶりを眺めながら、若かったセスとシエルはお互いに似合う色の薔薇を探していた。普通なら、色恋の感情を踏まえて赤い薔薇を渡すところだろう。だが、その時にセスが選んだのは可愛らしいピンクの色で、彼女から贈られたのは真っ白なものだった。
生家よりシエルが姿を消してからと言うものの毎年、男の誕生日になると決まって薔薇が届いた。送り元はバラバラの都市で不定。決まって無記名のカードが添えられていた。その意図はいまだに読めないままだが、いつも話しを聞いてくれたナハトは「早く見つけてやれよ」と腹をかかえて笑った。そこから推察するに、兄も知る誰か――と目星をつけてみたが、ここにきてようやく合点がいった。
「受け取ってくださっていたの? 嬉しいものね」
「その返しになるか分からないが、お前にドレスを仕立てたい。……駄目か?」
驚いた表情をした彼女に、セスは悪戯が成功したような気持ちになる。ぱっと頬に赤みがさして「ありがとう」との礼が聞こえたが、その言葉尻はほとんど聞こえなかったようなものだ。
「それと、お前の休日が欲しい。会いたがっている娘が居るんだ」
「私に? どんなお嬢さんかしら。直近なら来週、ザームの屋敷を手入れに行くときね。大丈夫であれば伝えてくださると嬉しいわ」
改めて休日を請求されたシエルは、そわそわと落ち着きがない。誰だか気になるといった様子だが、当日までの秘密にしておこうと思う。話しにひと段落ついたところで十八時を報せる鐘が鳴った。執務が残っているセスは、それを切りあげるべく軍部へと戻っていった。