第五章 冬の足音
「残りのご報告になります」
「ああ、ご苦労。彼にはこちらの書類を持たせてやってくれ」
手短に指示すると、反対側の書類が渡される。その様子に無表情をとおしながら、セスは思い出したかのように息をひとつだけ吐いた。秘書のおかげで厄介な書類を押しつけることに成功したのだ。慌ただしそうにしていた彼には気の毒だが、司書隊にだけは出向きたくない。それが仕事で、必要だと言われてもである。
つい数日ほど前まで外交官として聖王国に出向いていた男が帰ってきた。ある者は素直に帰国を喜んだかもしれないが、当の息子がそれを喜ぶかと言ったら否である。近衛師団の司書にして、先の戦争の功労者――特務とは名ばかりの好事家な少将だ。
誕生日おめでとうなどと手紙には綴ってあったが、そんなの九割が口実だ。真意がなんであれ、眼前でシエルに不埒な真似を働いていたのには変わりがない。それに、短時間とはいえ精神的な干渉を受けていたシエルの様子も気にかかる。
「人を払っておきますね、少佐」
「助かる、伍長」
「ちなみに本日は三十二回目ですよ。日ごとに増えていきますねえ」
感心した様子の伍長はティーセットを片付けながらクスクスと肩を揺らす。近衛の受付に配属された時点で多忙なのは理解しているつもりだが、その息抜きと称して上司の困り顔を日ごとにカウントするのはやめて欲しいものがある。
実に他愛ないやりとりをしているうちにも時間を迎えたのだろう、執務室のドアが叩かれる。セスが入室を促すのと同時に部屋を出て行った伍長。すれ違いざまに談笑が聞こえたが、早々に切りあげられて一人の少年司書が入ってきた。
「せっかくの美男が台無しじゃないですか。クロイツ少佐」
少年は開口一番に茶化してきた。まるで今さっきまでそこに皺が寄っていたのを知っているかのように、さすさすと眉間をさすってくる。
榛色の髪は癖でもあるのだろうか、ふわりと軽く跳ねている。ぱっちりとした紅い瞳がセスの表情を覗き込み、その仕草からはどことなくシエルと同じ雰囲気を感じさせた。それでいて見慣れない顔に、セスはますます眉を寄せたのだった。
「依頼しておいて僕には気づいてくださらないんですか? 久しぶりに会えると思って楽しみにしてたのに」
「……は? 私の依頼は司書隊の秘書官殿に……」
「僕があの人の秘書なんですってば! なんで近衛の人たちって僕のことを信じないんですか、その両目はきちんと見えているんです? 飾りなんじゃありませんか」
誰か冗談だと言ってくれ。ただでさえも宮廷に連れて行ったナハトの事後処理に追われているというのに、これ以上の子守などできかねる。それが表情に出ていたのだろう、自称秘書官の少年は声を荒げて毒づき、階級章を突きつけてきた。
そこには確かにカノン=ヴァンベルグと銘がうたれており、准尉の地位と特務少将づきの秘書であるとの身分を示していた。セスが把握していた限りでは、司書隊の秘書官はずっと空席だったはずだ。いったいどういう風の吹きまわしなのだろう。
「正直へこみました。でも、そういうところも変わりなくて安心しました」
「す、済まん。司書はどうにも苦手でだな……気づけなくて悪かった、カノン」
「……はあ。それより大尉――姉上の視察の件ですけれど」
「何か掴めたのか?」
もごもごとセスが言い淀んでいると、カノンは資料を広げながらソファーに落ち着く。あれこれと情報を交わしながら、雑談をするかのように軽く本題が切り出された。それは司書なら誰しもができる話術になるのだろうか、どことなく兄と話しているかのように錯覚する。
広げられた羊皮紙は、レムギアの国内を描いた地図になっていた。中央領を示す箇所から国土の端っこ、空白の領地がさし示される。確かそこの領主は不在で権利も失効――家そのものが取り潰されたと記憶している。キーリカ領と比べたらずっと不毛の地で、馬車が行き来するにも難儀する道の悪さだ。
そんなところに、ユニアはもっともらしい理由をつけて向かわされた。憲兵隊の長ともなれば、個人差はあれど法務院にも顔が利く。そんな彼女を、面倒な手段を使ってまで中央領から彼女を排除した。そうまでしてカイン伯爵が遂げたい目的などひとつしかない。
「今度こそ上手くいきますよね? シエルを誰かに、それこそ他人ってだけで好き勝手されるのだって嫌だって言うのに。ましてや彼女を愛してる? 気持ち悪くて吐きそうだ」
あどけなさの残る面差しに彼が浮かべたのは、剝き出しの憎悪だった。彼もまた見えない亡霊に怯え続けているのだろう。だとしたらカノンは、シエルはどれだけ泣き濡れてきたのだろう? それを思うと、セスは返す言葉が無くなってしまう。
お前たちが、どれだけ両親に望まれた存在であったか話しても無駄だ。二人の想い出や記憶といったものに、少しだって残っていないのだから。彼らが望まない以上、話してやるだけ酷な思いをさせるかもしれない。それを考えると、気の利いた言葉が出てくるわけでもなく。
「善処する。今度こそだ」
「…………。じゃあ、僕はこれで失礼しますね」
よくよく注意深く見てみれば、カノンの様子もどこか可笑しい。普段はおとなしいくらいだというのに、まるで水面に波紋がたっているような印象を受ける。何かに影響されて増長しているような……他者の意図を感じてしまうのは気のせいだろうか?
就業の時間を告げにきた伍長と入れ替わるように、カノンは部屋を出て行く。広げられたままの資料を片付けると、セスも続くように部屋を出て行った。ただ一言「一等地に居る」と書き残された筆跡を信じて、この日は帰宅することにしたのだ。
「お帰りなさい、お兄様。……お兄様?」
「あ……ああ。ただいま、シェリー」
一等地とは反対側に馬車が走り、いつもの路地で停まる。今日も夜がきて時間が過ぎ、明日も朝陽がのぼる。そんな当たり前のことが億劫に感じるのは何故だろう。本日も激務だっただろう兄の様子を、妹は心配そうに見やった。
「シェリー、今度の休みに少し屋敷を出ないか? お前が会いたがっている調教師の日程がもらえたんだ」
「ほんとう? ありがとう、お兄様! どこまで行くの? どんなお洋服がいいかしら」
季節が秋から冬に移ろったこと、それから風通しのいい農耕地に向かうことを考えれば、厚着になるのが自然だろう。シェリーは冬用のコートを見て決めあぐねているみたいだった。妹の無邪気な姿に、昔メイドづてに聞かされたシエルの姿が重なる。
セスが寄宿先から戻る前日ともなると、彼女も決まって洋服の詰まったクロゼットを引っ掻きまわしたのだと。それと似たようなところ……なのだろうか? 子供の成長は想像よりもずっと早く、特に異性だからそう感じるのか実に鮮やかだ。
「お兄様、これじゃあ派手かしら」
「派手ということは……ああ。彼女は年相応なくらいが好みだと思うぞ」
「なら、こっちにする! えへへ、楽しみ」
無難な答えすぎただろうが、あながち間違ってはいないはずである。目に見えて表情を明るくしたシェリーは、洋服を片付けると今度は文机に向かった。数あるなかから選び出したのは、落ち着いたアンティーク調の便箋と封筒。いかにも受け取り主が好みそうなものだが、どうやってそれを知ったのだろう?
「この前ね、白百合様がお見えになって。また遠くに出てしまうからって、調教師様のことを教えてくださったの」
「そういうことか。それなら間違いないな」
手紙を綴りはじめた後ろ姿を眺めつつ、事前にユニアが顔を見せに来てくれていたことには驚いた。彼女との付き合いは古くて、長い。似たような境遇なのも手伝ってか、幼なじみのような姉弟みたいな……いざ言葉にすると形容しがたいものがある。たとえ形容しがたくとも、良好な関係であることには変わりがない。
「ねえ、お兄様。お兄様は白百合様のこと、お好き?」
「あの潔さは好ましいが、それ以上かと訊かれたら少し違う気がするな」
「じゃあ、ナハトお兄様のことは?」
「尊敬できないこともない。だが、いい加減に相応の生活をして欲しい」
弟としての切実な願い。それが言葉の端々からも滲んでいたのだろう、シェリーは「確かに」と納得した。ナハトと初めて会ったときの彼女は、青年たちを指さして「ほんとうに兄弟なの?」と首を傾げたものだった。
こうして話しているうちにも手紙を書き終えたのか、丁寧に蝋印で封をする。妹は何も言わずに、それを兄に託した。自分で渡したらどうだと返したが、頑ななまでに「恥ずかしいからお願い」の一点張りだった。