第五章 冬の足音




 拝啓、調教師様。
 初めてのご挨拶が手紙である無礼、お許しくださると嬉しいです。
 お兄様は、きっと誰よりも調教師様がお好きだと思うの。だから、飛ぶことを忘れてしまう前に放ってあげて欲しいです。お会いできるのを楽しみにしています。



 シエルの元に可愛らしい手紙が届いた。特別な羊皮紙に綴られた青い文字たち。心から筆記している内容を望み、求めている何よりの証拠だ。送り主は誰とは名乗らなかったが、セスを兄と呼んで慕っている少女であろうことは想像がついた。
 ほんの一時、社交界で噂がたったのだ。近衛の将校が、名も知らぬ少女を引き取ったらしい――と。すぐに立ち消えてしまったから確認のしようが無かったが、事実だったとは。

「ほら、次だ! 早く打ち込んでこい」
「この子はともかく、僕は遠慮しますね」
「カノン様……うう、頑張ります」

 真っ直ぐでいじらしい小鳥に返事を書こうとして、なかなかどうして困っている自分がいた。困り果てながら庭先へ出れば、聞こえてきたのは剣戟の音。
 暇を持て余したセスによる、地獄絵図にも等しい稽古が始まっていたのだ。すっかり息を乱したアインツはくたりと座り込み、話しを振られたカノンは大慌てで逃げてくる。

「あ――シエル。……けほっ」
「やだ、レイル風邪じゃない。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。心配性だなあ、シエルは」

 大丈夫と言いながらも、カノンは喉に絡むような独特の咳を何度も繰り返している。額に触れてみると平熱よりも少し熱かった。レイル風邪は感染力こそ皆無に等しいが、他の病気を併発しやすい特徴がある。大人は滅多にかからないものだが、念のためにと薬は常備していた。
 いくら常備しているとはいえ、現在ある薬は月日が経ちすぎていて効能のほどは怪しい。シエルはメイドの一人を捕まえて買いに行かせると、問答無用で兄の腕を引っぱって避難部屋へと連行していった。

「……もう。すぐに無理しようとするんだから」
「ごめん。ここのところ忙しくて、どうしてもね」

 汗で身体に張りついたシャツが皮膚さながらに剥がれてく。そのまま妹の気が済むように、黙って背中を拭かれている。すると、何かに気づいたように小さく洩れ出た「あ」という声。
 彼女の、シエルの視界にはいくつもの爪痕が残っているのが見えたはずだ。労われるようにそこへ指先が這い、慰めるようにちゅっと柔らかな唇が触れた。今どんな表情をしているかなんて想像がつく。きっと自分のことのように痛みを感じているに違いない。

「居るか? カノン」
「セス様……と、林檎……ですか」

 遠慮がちに入ってきた青年の手にあるのは風邪薬、それから小脇にかかえられた紙袋には林檎が小さく山になっていた。青果屋のおば様が渡した林檎には、下心がありありと透けて見える。受け取りながらもそれに気づかないあたり、実にこの堅物らしいというべきか。
 まだローデの屋敷に居た頃の話しだ。不器用なナハトが林檎の皮を剥くのに執心していたことがあり、非常に不格好な見てくれをした果実ばかりを量産していた。有り余るほど剥かれた実の処理に、運悪く風邪をひいていた双子が宛がわれたのだ。
 そんな経緯があって以降、シエルは林檎を生で食さなくなった。真っ赤に熟した果実を見るなり、目に見えて渋い顔をしたが、セスは意に介さず果物ナイフで器用に剥きはじめる。

「ほーら、ウサギさんだぞ。お姫様」
「もう、カノンったら。ナハト様って、もっと」
「……兄さんの真似はよせ。馬鹿が伝染する」

 大真面目な顔をしたセスは、あっという間に林檎でウサギを形作った。苦手だと知っているはずなのに、それなのに大好きなウサギを作るなどと実に罪深い所業だ。内心ではそう思っていたが、シエルは黙ってその様子を眺めていた。すると完成したウサギが飛び跳ねるように動かされ、もの言いたげな少女の唇に触れた。驚いて身動きの取れなかった様に満足したのだろう、男の口端がかすかに持ちあがる。そして何事も無かったかのように自身で食べてしまうと、新しい果実に手を伸ばす。
 その一部始終を見ていたカノンは「セス様のそういうところですよね」と呟いて布団に丸くなった。