第六章 白日の幼心
ルブルムの屋敷に帰ってからというものの、シェリーは毎朝の世話を欠かさなかった。
いつも大切そうに鉢を抱えて日向に出してやり、暖かい陽射しをあててやる。水は頻繁でなくとも大丈夫らしいが、それでもこまめに水をやっていた。
そんなある日。家主の青年が珍しく欠伸を噛んでいると、カシャンと陶器のようなものが割れる音がした。なんとなく心が騒いでその音がした方向に向かうと、やがて妹の部屋に行きつく。勢いよくドアを開けると、そこには怒りから身を震わせる女と、割れた鉢植えを見やってはすすり泣く少女とが居た。
「義父様も、あなたも、あの人だってあの小娘ばかり! 私の立場は一体何だと言うのよッ」
「僕の動きを縛るための口実。あの男にとってはそれだけの価値だ。だから僕はお前に構わなかった、一切だ。だが――今回ばかりは腹に据えかねる。荷物をまとめて即刻出ろ、二度と伯爵家には関わるな」
静かに怒りをあらわにしたセスに匿われた少女は、動向を窺いながら怯えの色を滲ませた。こんなにも感情を荒げている兄は初めて見た。たかが鉢植えひとつ。言われれば確かにただの鉢植えだ。だが、そこに込められた気持ちを蔑ろにされた気がして目に余ったのも事実だろう。
「ごめんなさい、ごめんなさいお兄様。鉢植え、だめになっちゃった」
「まだ間に合うかもしれない。代わりのものを用意するから待ってろ」
メイドに具合いの良さそうな鉢植えを見繕ってこさせると、青年はこぼれた土を集めて土台を作り、宵待花の株を植えなおしてやる。根付くかどうかは分からないが、あのまま枯れてしまうよりはずっと良いだろう。
今にも泣き出しそうな妹を抱きしめる。遅くとも早くとも、妻とはどのみちこうなったのだ。そのことに関しては一切の後悔は無いが、伯爵に踊らされただけの身の上には同情を禁じ得ない。だからと言って下手に延命させるくらいなら今日が潮時なのだろうと思いなおした。
「シェリー、僕は」
「お姉様とどこか遠くへ行かれるの?」
「……身勝手な兄で済まない。だが」
セスの身を縛るものは無くなった。シエルもクロイツ家の保護下から離れた今、行動に移すなら今が一番のチャンスだと思う。年端のいかない少女に看破されてしまい、思わずびくりと身を震わせた。
気がかりなのはシェリーの今後だ。父には深く関わらないこと、必要なら兄のナハトを頼ること。生活が落ち着いたら必ず手紙を出すことを約束した。それが妹と交わした最初で、最後の指切りだった。
十二月の三回目の金曜日。その日がドレスの採寸を取りつけた日時である。
この日は首都も祭りがあり、その騒ぎに乗じて女所帯は狙われることもあるため、貴隷の娘やメイドたちにはザームの屋敷へと移ってもらっていた。これなら最低限、何かあっても自身の身は守りきれるだろうと思う。
いよいよザームに発つ頃合いになって、アインツが駄々をこねたというか、渋ったのを思い出す。小まわりの利くものなら扱えるのだと証明してみせたら、引き下がったけれども。思えば彼が居ない屋敷というのも久方ぶりだ。以前はそれが当たり前だったというのに、何だか不思議な気持ちになる。
「帰して良かったのか、シエル」
「本当に危ない時は、貴方が守ってくださるでしょう?」
「それは当然だが。……どうやら到着されたらしい」
呼び鈴が鳴らされる音に、シエルはセスを連れて玄関に向かった。開けた先に居たのは瓜二つの顔立ちをした老紳士たち。双子の宮廷仕立て人である。
「ごきげんよう、シュトレン卿。お変わりないようで安心したわ」
「これはこれはシエル殿。相変わらず愛くるしいですなあ」
「いっそう瑞々しくなられて……じじどもは驚きましたぞ」
少女の挨拶に対して返ってきたのは、揃って口々に調教師を褒め称えた言葉。その様子に小さく肩を竦めたセスは、彼女が難色を示した理由を思い知ることとなるのだ。一旦は腹を括ったとはいえ、さんざんに逃げてまわったシエルは「前に測ったのがあるでしょう」やら「ほら! 帳簿にも残っているじゃない」などとこぼしている。それを難なく捕まえた青年だったが、身体のサイズを測るだけの何をそんなにと思う。……つい、五分ほど前にそのような判断を下した自分を激しく後悔した。
セスがソファーに腰を落ち着けるのを合図に、採寸は始められる。無言で抵抗しているシエルのスカートが、するするとたくし上げられた。それに合わせて皺だらけの指が、滑らかな肌に、柔らかそうな太腿をたどる。
「カイン殿は調教師も青ざめるほどでございますからなあ」
「そのご子息も無論とは思いますが。脚はやはり四エレほどでございます、兄上」
形のいい尻を撫でてはその形づくりや感度の良さを褒めちぎった紳士たち。まるで一度味わったかのような口ぶりが気にかかる。眉間に皺を寄せているあいだにも、革製のコルセットが外されていく。育ちはじめてきた時から整えていたのだろうか、小さくとも張りのある双乳。つんと上向いた乳首は赤く熟れ、外気に触れてひくりと震える。その採寸風景に、男の視線は釘付けになった。
眼前で割り開かれるシエルの脚線をたどりあげ、その奥にある無毛の恥丘や狭い秘孔の具合いを想像してしまう。ふるっと肌が戦慄《わなな》くのを視覚で感じ取ると、彼女がいかに羞恥を感じているのかも理解してしまった。
こんなの、あの男と同罪じゃないか。
急速に冷える脳内とは裏腹に身体だけは異常に昂ってくのを再確認する。嬌声にも似た声が小さく響くたび、初めて見た彼女の淫らな姿が脳裏をよぎった。陽射しを受けながら揺れる小さな裸体、熟れて美味そうな蜜を垂らす恥部。それらが一気にフラッシュバックして、たまらずにぞわりと大きく背筋が震えた。
「……はー……」
気づけばセスはずるずると背凭れに身体を預けていた。しばしの沈黙のあと、ようやくひとつだけ長い息を吐き出したのだ。煩悩を振り払っているうちに、採寸作業を終えたシエルはそそくさと着替える。キュッと締められたコルセット姿で現れた彼女の姿に、青年は大いに安堵した。
「ね、ね、セス様。せっかくだしお祭り行きましょうよ。今日は非番でしょう?」
「それは構わないが……別に何があるわけでも無いだろう?」
「稀には良いじゃない。息苦しくてたまらないの」
十二月三週目の金曜日といえば、レムギアのどこも――特に農村地帯は降魔祭という祭りで賑わっている。祭りなどと言えば聞こえは良いが、実質は大人たちの夜の営みに貢献するための口実で、閉鎖的な土地柄の変わった風習に近いものがある。祭りなどと呼べるほどの催し物があるわけでも無いが、外の空気を吸いたそうにしているのは確かだった。
シエルは慣習にならって黒のローブと仮面を用意してきた。妻帯の有無などを一目で判断できるよう、それを示すための刺繍がところどころ飾っている。二人はローブを羽織ると、仮面で表情を覆って街へと繰り出した。
「何故あの男との結婚を渋る。好きなのだろう」
お互いに色恋の話しを好むわけではないが、稀には話題になったりもする。結婚が絡むとことさらに口を噤んだものだったが、伯爵が何かしらの企てを実行する懸念がある以上、それは必然的に避けられないものとなる。
酒で酔ったユニアに「お前に愛される女とはどんな娘なのだろうな? 私としては非常に興味深いぞ」と芝居がかった口調で質問責めをされたの思い出す。その時も「お前の妹だ」と素直に言えず、きっと今でも同じだろうとは思うが。
「単純に言えば好きよ。私たちに良くしてくださったし……貴方に似てるから、とかそんな理由もあったけれど。あくまでおじ様は親みたいな感じだし」
普通の娘は父親と寝たりなどしない。この淫乱。
そうなじってやるべきか。けれど、彼女がクロイツ家で過ごした時間というのはそれであったゆえに異質なものかもしれない。そこまで考え至ると、罵る言葉さえ躊躇らってしまう。
「それに私、好きな方が居るの。今度ドレスを仕立ててくださるそうで、今日がその採寸日だったのだけれどね」
ぼそりと告げられた言葉。無防備な喉元に鋭利なナイフでも突きつけられたかのように息が詰まった。その一言に不覚にも男の鼓動は跳ねている。
「お前が、僕を……? そんな、はず。お前のことは嫌いじゃないが」
「本当? 嬉しい」
捻くれた言い方になってしまったが、それであっても嬉しそうな声音が返ってきた。真偽を確かめようと、シエルは仮面越しにセスの表情を覗き込んでくる。そんな様子に、落ち着けるようぽんと頭を撫でてやる。
「あの男に気があるのではと考えただけで腸が煮える。だが……だが、あの男には確かな力がある。お前がそれを選ぶなら、邪魔はできない。ずっと、そう思っていた」
「いつだって貴方の傍に居る方法を探していたわ。大人になればそれが叶う、そう信じていたこともあった。なかなかどうして、上手くいかないものね?」
真意をこぼしあうと互いに失笑のようなものを浮かべたが、次第に小さな笑いへと変わっていく。想うところも、行きたい先も同じだと言うのに、どうしてこうも遠回りをしてしまっているのだろう――と。
人気の無い路地に入ると、セスは仮面を外す。そしてシエルから仮面を奪うと、それはカランと音をたてて石畳を打つ。言葉にしてみたら、燻っていた感情が一気に燃え広がっていくのを感じた。気づけば呼吸を奪うように口づけていたではないか。
舌を伸ばして深くまで探る。乱れてく息遣いだけがいやに耳につく。寝静まったかのように静かな街に、二人だけ置き去りにされたように錯覚する。けれど、それでも良いなどと思ってしまう。
「僕の傍に居ろ。いいな、シエル。何か、似合いそうな目印でもあつらえてやる」
「ちょっと。私は動物じゃないのよ、もう……」
口角を上げたセスはどことなく不敵な笑みを浮かべた。あのドレスに似合いそうなもの、首飾りの類いなら自然に見えるだろうか。アンクレットやブレスレットでも良さそうだが……。
あれこれ思案していると、自然と足は屋敷のある一等地へと向いた。そろそろシエルを帰してやらないと、さすがに心配するだろう。誰がとは言わないが、彼女はあれでいて妹が可愛いのだ。
しかし、この時の二人は知らなかったのだ。あとの運命が激流であることを、微塵にも感じなかったからだ。