第六章 白日の幼心




 屋敷に近づくにつれて、空気中の元素たちが静かになる。普段はもっと活気があるというか、ここまで静かだと逆に違和感を覚えてしまう。それは魔術師の特殊な感覚のようで、隣りを歩くセスの様子を見ても何ともなさそうだった。
 人の気配がないのは元より、防護の魔術や拘束の魔術も作動していない。外部からの侵入者は無さそうだ。しかし、こうして家主であるシエルから発動の指示を受けても動作しないのは明らかな異常だ。扉を開け放った瞬間、迷わず彼が先陣を切った。不気味なほどに静まり返った玄関ホール、廊下、あらゆる部屋を見てまわる。最後にたどりついたのは隠し扉の先――書斎として使っている部屋だった。

「……セス様」
「ああ。何かあったのかもしれない」

 部屋が荒れた形跡が見られないことを踏まえると物盗りではなさそうだ。こまめなメイド頭が出迎えないのも、普段から可愛がっている小間使いが顔を見せないのも当然だが……。
 込み上げてくる言いしれない不安を伝えるように、大きな手をシエルは握る。それに応えてもらうとほんの少しだけ安心して少しだけ表情が緩んだ。

「シエル……シエル! 良かった、間に合ったんだ……僕」
「良かった……! 無事で居たのね、カノン。何があったの?」
「何かあったどころじゃ――少佐殿、早くこの場を。時間は僕が稼ぎます、だから……」

 人影が見えた。そう思ったのは相手も同じようで、切羽詰まった様子で駆け寄ってくる。シエルがローブを脱ぎ捨てると、そこに居るのはカノンだと分かった。
 再会したのもほんの束の間、緊迫した面持ちで退避を促される。ザームの屋敷もセスの私邸も押さえられてしまった。そのうえカイン伯爵からの刺客がこの屋敷まで迫っていると。それ以上の言葉を遮ったのは強い突風が吹き抜けていったからだ。

「そこまでだ、カノン。いや――ヴァンベルグ准尉」

 咎める声はどこか硬く諫めるようにも感じられた。カツ、カツとその声の主は静かに迷いなく歩を進める。三人のシルエットが目に留まる距離で歩みを止め、彼女は込み上げる感情を抑えるように深く息を吐いた。
 それがカイン伯爵の狙うとおりだと理解していてもだ。憲兵である人間が生存する手段はひとつ。目の前の間者を始末することである。

「姉上! くそ、邪魔はさせない……! あの男の、あの男の思惑どおりにしてたまるか!」
「あまり私情を持ち込むな。過ぎた情は死を招くぞ」

 カノンは手早く先へ進むよう示唆すると、ユニアの足を止めるために前に出た。
 邪魔はさせない――その言葉どおり女の足止めをするために。無駄な問答もなく元素をより集めて互いに武器を構える。それは両者の主張が相容れないものであり、相手に歩み寄る気など毛頭ないことを示していた。慎重に呼吸を読み合い、何度も距離を詰めては離すのを繰り返している。

「彼女を連れて、早くッ」
「私を相手によそを見る余裕か。いい加減に聞き分けないか、准尉!」

 一合、二合と打ち合い続けてもなお、その実力は拮抗する。魔力の余波を受けて起こった旋風が窓ガラスを粉々に砕いた。気をそらした少年の攻め手は呆気なく女の一閃で突き崩されてしまう。動きの速さ、的確さ。どれも物語っているのは圧倒的な経験差であった。

「カノン! くっ……行くぞ、シエル」
「でもっ」
「頼む、シエル。僕に――僕にカノンの気持ちを無駄にさせないでくれ」
「……分かったわ……」

 セスに腕を引かれたシエルは屋敷からの脱出を目指す。隠し通路や扉を駆使して接合しているホールへと抜け目的の扉を開け放った。
 屋敷の外に停留していたのは二頭立ての馬車。そこから一人、誰かが降りてくる。白粉白粉白粉や香水の匂いをさせたその人物は、二人の影を視界に収めてローブと仮面を脱ぎ捨てた。中肉中背とは無縁な絞れた身体。とてもその年齢には見えない壮年は、口元に蓄えた髭を撫でながらとっさに匿われた少女の姿を目ざとく見つけたのだった。

「鼠駆除ご苦労、少佐殿。……さて、シエル殿には大至急こちらにサインしていただきたい」

 カイン伯爵から差し出されたのは一枚の契約書。それはシエルのよく見知ったもので、どんなインクを使っても文字の色が変わる特別なものだ。心から承服していれば青色の文字を、拒絶すれば赤い色を浮かべる。
 貴族同士の婚姻や、貴隷の主従契約などと言った一級の契約を交わすときに用いられるものだ。これが一度とおってしまうと厄介で、解消には最低でも三ヶ月は要する。所有者としてすでにカイン伯爵の名前が綴ってあり、あとは貴隷のサインを待つだけのようだ。

「歯向かえばお前の片割れは死ぬぞ? どうするかね、シエル」
「…………もう少し、考えてくださったら嬉しかったわ。伯爵様」
「この前に老いぼれると言ったであろう? 私も余生の娯楽は欲しいものでな」

 シエルは護身として持ち歩いている銀筒を抜き払い、カイン伯爵に向かって蒼白いナイフを突きつける。悠然と構えた紳士の胸ぐらを思いきり掴んだにもかかわらず、動じる気配すらない。むしろ、それを楽しんでいるかのように口端を歪ませた。
 この壮年の紳士が危険なのは薄々だが理解はしていた。どれだけ歩み寄れたとしても、決して分かり合うことは無いのだろうとも。兄や姉に剣を執らせたことも、屋敷のメイドや貴隷の娘たちといった無関係な人間まで巻き込んだことにも立腹している。だが、ここまで目的も手段も選ばないとは――完全に見誤っていたのかもしれない。

「相変わらずいじらしいくらいよ。……今度は他に何を望むかね」
「憲兵も居るのでしょう? なら別の契約書を用意して。伯爵様がそこにサインをくださったら、私もサインするわ」

 紳士の手元には魔導書が二器あった。片方は見たことのない小瓶の姿をしていて、それよりも目に見えて厄介なのは禁書のほうである。書斎にあった資料で見たこの魔導書は『氷棺の女王』と呼ばれていて、氷の女王を召喚するためのものだ。
 元素にも王に近しい存在がいる。彼は一瞬でもそれを喚び起こし、局地的に天変地異を起こすつもりでいるのだろうか? 扱いに成功しても周囲は氷雪で閉ざされるが、失敗したらそれこそレムギア全体が凍土になってしまうような代物だ。
 禁書や古書として扱われる魔導書は世間的にタブーとして扱われている。触媒の扱いの難しさもあるが、非人道的な使い方をされるなど理由は至ってさまざま。共通して言えることといえば、術者にかかる負担が大きく消耗が著しいものが挙げられるだろう。

「ずいぶんと勇ましいな。いいだろう、造作も無いことだ」

 目当ての少女さえ手に入れば、文字どおりに他はどうでもいいのだろう。人質の解放からはじまり、あらゆる予防線を張っていくつも約束させたが、憎らしいほどにカイン伯爵は一度で成功してみせた。壮年の男に促されて、約束どおりにシエルも筆を落とす。だが、拒絶の赤い文字が続いた。
 心の内では焦りを隠せない。このサインを成功させなければ、今よりなお無関係な人間を巻き込んでしまう。いくら父親の遺した理論を模倣した結界で守ってあるとはいえ、どこまで耐えられるものかも分からない。赤い文字が浮かぶたび、彼女の心の底はちりちりと灼けてく。

「さて、少佐殿にはこちらにサインしていただこうか。手間取らせれば――分かるかね」
「どこまでも周りくどい男だ」
「用意がいいと言って欲しいものだね。情けで動くほど無駄なこともあるまい」

 触媒が充分に満ちたのだろう、手元で魔導書が共振する。シエルにサインをさせることが最大の目的だというのに、他に何を望むというのだろうか?
 壮年が息子に対して見せたのは別の契約書である。そこに記載された文面を理解するや、セスは吐き気さえ催した。本気で彼女を飼い殺しにしようとしているのが見て取れたからだ。

「正気とは思えん」
「何とでも言いたまえ。あれは私の胎なのでな」

 レムギアでは私財の拡充を目的とした決闘は禁じられている。しかし、その私財が妻や貴隷といった場合のみ特例として認められているのだ。それを見越してのことだろう、カイン伯爵が求めてきたのは自身の生死にかかわらず息子であるセスに権利を放棄させる契約だった。
 彼女が――シエルがこの契約に価値を見出さないかぎり、了承のサインなど出るはずも無い。そう、心のどこかでタカを括っていたのかもしれない。三度目の筆を落として青い文字を浮かべたのと同時に勝ち誇ったかのような笑い声が響く。

「はは、本当に承服するとは……管理局は驚愕するでしょうなあ。令嬢が、自らの意思で私の貴隷になったのだから」
「なん、だと……? そんなはずが――貴様、彼女に何を」

 慌ててシエルの元に駆け寄ると今にも膝から崩れそうだ。その足下には下着が意味をなさないほどの蜜がしたたり落ちていて、瞳の焦点はどこか合わずに虚空でも見ているようである。ぼそぼそと何やら言葉にならない言葉を発している。何を言っているのか耳をそばだてようとしたが、すっと身を離されてしまった。

「さて、帰ろうかね。シエル」
「……ええ。またね、お兄さま」

 驚くほど不気味に優しく促されて、シエルはたどたどしく言葉を紡いで手を小さく振る。まるで幼子のような仕草に、セスははっとなって顔をあげた。
 クロイツ家も魔術師の血族だ。一般的に広く普及している術式以外にも、それこそ代々口伝で伝えられてきたような術というのも確かに存在する。そのなかで最もカイン伯爵が得意としているのが、他者の精神を拘束して意のままに使役するものだ。
 それを使って彼女を操っているのだとしたら? 仮定でしかないが可能性としては有り得る。だが、シエルとて同じ魔術師――何かしらの対抗手段を講じているだろう。

「……必ず助けに行く。だから待っていろ、いいな。シエル」

 その言葉が届いたのかは分からない。けれど、小さく身体が揺れた気がした。二人は反対方向へと歩き出す。今後の方針を手早く固めると、セスは単身でザームへ向かうべく馬の手綱を引いたのだった。
 きっと、使用人たちは待っている。どんな形であれ彼女が無事であるという報せを――。



 先の三年戦争のおり、この田園都市はたった一人の密偵によって攻略された。新たに領主に選ばれたヴェーデ卿は悪政を敷いていて、結託した領民たちにより惨たらしい最期を迎えた。これにはさまざまな憶測もあるが、結局は彼の人となりが原因で陥落したようなものだ。
 次の領主にはヴァンベルグ家からとの声が多く、姉弟たちの復権を望む声が多かった。そんなふうに暖かな人々に囲まれて、彼女が幼い頃を過ごしていた場所。そこに許可なく踏み入るのは気が引けたが、彼は歩みを止めることはなかった。

「クロイツ様! シエル……シエル様は」
「貴隷として伯爵の傍にいる。――済まない」
「いつもあの方は貴方様だけを待っていたのに……どうして」

 駆け寄ってきたアインツとメイド頭のサラは怒りと哀しみの色を隠さなかった。幼い顔立ちをくしゃくしゃに歪めて泣き崩れる。彼らは自分たちが手酷い扱いを受けるよりも、優しい女主人にそのような決断をさせてしまったことが耐えられないようだった。

「確か……サラと言ったか。僕が書斎に立ち入っても大丈夫か?」
「はい。何かありましたら、お支えするように言いつけられています。どうぞ、わたくしどもを存分にお使いくださいませ」
「…………感謝する」

 カイン伯爵は情で動くことを嫌うが、人間を動かすのは情だと身につまされた。セスは使用人たちに協力を仰ぎ、書斎の資料や魔導書を片っ端からあさりはじめる。
 軽食を口にしながら資料探し。それから法務院への手続き。忙しく動いているとザームに来て三度目の夜が訪れて、気づけば眩しい朝陽が昇っていた。